マンはドイツ音楽とその源流のロマン派について多くのことを述べ、それが人類に与えた偉大な貢献のことを繰り返し強調している。にもかかわらず、そうしたドイツ人の魂の深さから、遂にはナチスに象徴される「ヒステリックな蛮行、倨傲と犯罪への陶酔と発作」が生み出されたことこそがマンの主題であった。そこには「錯乱的な逆説」がある。
日独で類似する「逆説的」結び付き
それは深くドイツの宿命の根源をついており、それだけにまた悲痛感にも溢れている。そして、橋川は優美な心とその政治的発現形態の錯乱的な醜悪さとの逆説的な結び付きというテーマは、近代日本にも当てはまるという。
日本人もまた、すぐれて繊細な心情の持ち主であり、勤労そのものへの先天的な敬虔さ、自然への愛、清潔な生活感覚を持っていた。それらは何も日本人の自惚れというには当たらないのであって、古くから外国人がしばしば指摘したことである。
しかも少なくとも近代日本の政治に現れた限り、そこにはほとんど謎のように解きがたい日本人の卑小な倨傲さ、頑迷なエゴイズムの様相が濃厚に現れているところがある。ある場合には、甚だしいシニシズムとマキャベリズムも見られた。
この逆説について多くの自己評価が戦後試みられてきたが、マンのようなものはなかったのではないか。丸山眞男の優れた分析があったが、それはやはり「よき日本」と「悪しき日本」の二分法によっており、同時存在の逆説がそのままに問題とされたのではない。
ここからさらに、マンのいう、ドイツ人は政治を妥協と見ることになじめず不潔なものとし、かえって政治に関わる時は悪魔にならねばと思い込むという指摘が日本人にも当てはまるという魅力ある考察が進む。以後は読者自身で読まれたい。
橋川を借りて言えば、私の好きな日本で非常に受けのよいある歴史小説家の近代日本観もこういう二分法によっている気がする。「よき日本」と「悪しき日本」の二分法が、明治の日本と昭和の日本に当てはめられているのである。それだけに橋川の問題提起の意味は大きく、自分を「よき日本」の側に位置づけて過去を裁断することによって近代日本を片付けるような思考からは、これまでもそうだが何も生み出されることはないであろう。近頃まれに見る深く考えさせられる書である。