2024年5月19日(日)

スポーツ名著から読む現代史

2023年7月28日

志太の殺し文句

<社会人野球は会社の経費で運営されている。都市対抗に出場できれば会社の士気高揚、広告宣伝に寄与できるが、負ければ社内に居場所はない。株主総会で厳しい言葉を浴びるのみだ。だが、志太には再建への妙案があった。在野に、名将が一人いる。あの男をそのままにしておくのは、あまりにも惜しい。酒の力も借りて、一か八か、野村に迫った。「都市対抗に出られないなら、野球部をやっている意味はない。でもね、野村さんが来てくれるなら、オレは続けようと思っているんだよ」>(同書35~36頁)

 志太の殺し文句に野村の心は揺れた。最後は沙知代が背中を押した。阪神退団発表から11カ月後の02年11月6日、東京・新宿のシダックス本社ビルで野村の監督就任会見が行われた。

 「プロは終わったので、今までお世話になった野球界に恩返しがしたい。やるからには全知全能を振り絞って、都市対抗の優勝を目指したい」

 03年1月8日、シダックスのGM兼監督としての新生活がスタートした。自前の練習グラウンドはなく、調布市の市営少年野球グラウンドが練習場だった。冬場の風の強い日は、砂ぼこりが舞う環境だ。野村は「野球は野原でやるから野球なんだよ」と意に介さないようだった。

 打線の中心は1992年バルセロナ五輪金メダリストのオレステス・キンデラン、アントニオ・パチェコのキューバ選手で、2人とも39歳と峠を過ぎていたが、投手陣は伸び盛りの若手が加入していた。新人の右腕、野間口貴彦は関西創価高校のエースとして01年センバツでベスト4に進出。創価大学に進んだがすぐに退学し、よりレベルの高い社会人野球で自分を鍛えようとシダックスに入社した。野村が率いたシダックスでの3年間のうち、最初の2年間は野間口がエースとして活躍し、04年秋のドラフト・自由獲得枠で巨人に入団した。

負ければ終わり

 社会人野球のシーズンは3月の東京スポニチ大会で幕を開ける。シダックスの初戦は王子製紙が相手だった。先発に抜擢された野間口は期待に応えて好投、6-4で野村監督の初陣を飾ることができた。

 2回戦の日本通運戦は打線が2安打に封じられ、0-2で敗れ、姿を消すことになった。140試合以上のリーグ戦で勝率を競うプロの公式戦と違い、アマチュアは「負ければ終わり」のトーナメント。野村にとっても新鮮な経験となった。

 4月以降、全国各地で行われる大会を通じて、各チームの力量を測っていく。野村シダックスが一躍注目を集めたのは5月、岐阜・長良川球場で行われたベーブルース杯だった。

<野村シダックスは決勝で東海REXを5-0で下し、破竹の勢いで初出場初優勝を成し遂げた> <4試合で失点わずか1。2月から繰り返してきた試合後のミーティングの積み重ねもあって、野村の目指す守り勝つ野球は着実にチームへと浸透していた><エース・野間口の進化も止まらなかった。2勝を挙げてMVPを獲得。ネット裏に陣取ったプロのスカウトたちは、野間口のドラフト指名が解禁となる2004年に向けて「来年の目玉になるのは間違いない」と太鼓判を押していた>(91~92頁)

 4月25日から6月の都市対抗東京最終予選まで、野村シダックスはオープン戦を含め24勝1敗と、驚異的な勝率で勝ち進んだ。都市対抗東京最終予選も1回戦で野間口は東京ガス打線を7回1安打無失点に封じ、後に巨人のチームメートになる内海哲也に投げ勝った。

 2回戦(準決勝)も野間口は鷺宮製作所を相手に4-1の完投勝利。そして迎えた神宮球場での決勝戦。シダックスは左腕・武田勝から4投手の継投でNTT東京に9-2で快勝、3年ぶりの都市対抗本大会出場を決めた。


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