2024年5月26日(日)

スポーツ名著から読む現代史

2023年7月28日

 野村が「人生最大の後悔」と振り返る、継投の遅れだった。当時、野村は68歳。孫ほどに年の離れた選手に、名将は率直に頭を下げた。

 マネジャーの梅沢直充は、こう振り返る。<監督って、いつも控えめに、伏し目がちに話すじゃないですか。それがあの時は、眼鏡を外したときに私の顔をバチッと正面から見て「野間口が疲れているのは、分かっていたんだよ。でも今まで野間口で勝ってきたからさ、野間口で行っちゃったんだよ」って。その時は私も「次の都市対抗で絶対に監督を胴上げしたい」って思ったんですよね>(119頁)

涙の別れ

 梅村の思いは、残念ながら翌年も実現しない。都市対抗には2年連続で出場したが、優勝した春日井市・王子製紙と準々決勝で対戦、序盤リードをしながら、連投となる野間口、武田の2枚看板を投入できず、3-6で逆転負けを喫した。

 その年の秋、ドラフトでエース・野間口がチームを離れ、キューバの助っ人も帰国し、野村シダックスの3年目は投打の軸がいなくなった「新チーム」でのスタートだった。2年連続東京都第1代表で出場していた都市対抗予選では、初めて敗者戦に回りながらも第2代表で本戦出場を果たした。

 70歳になった野村は「今年は優勝を狙う。胴上げで落とされてもいい」と、珍しく大風呂敷を広げて大会に臨んだが、1回戦で岡崎市・三菱自動車岡崎に1-2で敗れ、初めて初戦敗退となった。

 3年連続で社会人野球の頂点を逃した野村だったが、身辺はにわかに騒がしくなっていた。それというのも、前年の球界再編を巡る大騒動を経て、この年から誕生した新しいプロ球団、東北楽天が常軌を逸するほどのペースで負け続けた。3年契約で指揮を執る田尾安志の更迭は避けられないとみられていた。若いチームを根本から作り上げることのできる指導者――。野村の名前がメディアに登場していた。

 去就をめぐる問いに「プロ? ない、ない」とけむに巻いていた野村のもとに、楽天球団の社長ら幹部が訪れ、監督就任を要請したのは9月下旬だった。野村は恩人でもある志太の了解を得てプロ球界への復帰を決めた。

 12月19日、志太の主催によるシダックスの送別会が開かれた。<会の冒頭では志太が3年間のねぎらいとともに、はなむけの言葉を贈った。「野村さんをプロ野球界にお返しできて良かった。月見草なんて言わず、明るい太陽に咲く真っ赤なバラのように大輪の花を咲かせてほしい」>。

 この後、野村が登壇した。3年間の思い出を語った後、予想もしなかった展開となった。<「人生は山あり谷あり。身につまされたのは、谷のところで仕事をもらったのに、志太さんに恩返しできなかった。シダックスを離れることになり、志太さんには本当に申し訳ない。お別れというのは非常に…」。次の瞬間、誰もが目を疑った。野村が突然しゃくりあげた。スーツのポケットからハンカチを取り出し、目頭を押さえた。数秒の沈黙が訪れる。あの雄弁な名将が、言葉を失い、人目も憚らず涙した>(235~236頁)

 野村は06年から楽天の監督としてプロ球界に復帰し、マー君こと田中将大を、日本を代表するエースに育て上げたほか、多くの話題を提供し、プロ野球人気の向上にも大きく寄与した。少年野球のグラウンドで、砂埃にまみれながら若い選手を育て上げたシダックスでの3年間が、野村を野球人として一回りスケールの大きな器にしたのは間違いない。(敬称略)

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