ゼロコロナ対策で都市封鎖が連発し自由な生活が奪われる一方で、厳しい言論統制で何も言うことが許されていない、だったら白紙を掲げようという抗議活動だ。正確な統計はないが、中国の主要大学、いくつかの大都市で抗議運動が起きたのは確実なようだ。
この白紙運動の起点となったのは新疆ウイグル自治区のマンション火災だった。避難できなかった人の助けを呼ぶ声が炎と煙の向こう側から聞こえてくる……。この凄惨な動画がドウイン(中国版ティックトック)を通じて拡大した。
避難できなかったのはコロナ対策でマンションの入口が封鎖されていたためだとの噂も広がり、このままコロナ対策が続けば次に炎に巻かれて死ぬのは自分かもしれないと人々の不安に火を着けた。抗議集会に参加しなかった人でも、マンションの入口封鎖に対して「法的根拠はあるのか?」などと個別に抗議する動きが広がったという。
白紙運動からほどなくして中国政府はゼロコロナ対策の撤回を発表するが、感染拡大はもはや防げないという事実とともに、人々の不満が可視化されたことも判断に影響したのだろう。
ただ、白紙運動で爆発したゼロコロナ対策に対する不満、あるいは1989年の学生運動と天安門事件の背景となった急激なインフレへの怒り、こうした「社会共通の不満」は現時点では存在していないだろう。不景気や就職難に苦しむ人はいるとはいえ、その不満はそこまでのレベルには達していない、というのが筆者の体感だ。
追悼活動に対する警戒も国家レベルの混乱を恐れているというよりも、地元で騒ぎを起こして叱責されたくない地方官僚の不安という側面が強いのではないか。
習近平と李克強、政策の違いは?
李克強前首相の死去に関するニュースで、もう一つ違和感を覚えている問題がある。それは「習近平総書記は共産主義路線、李克強前首相は市場経済重視」といった、わかりやすすぎる政策、路線の対比である。李克強前首相が権力闘争で敗れたため、中国は共同富裕に代表される社会主義回帰路線へと突っ走ってしまった……といった読み解きはわかりやすいが、これまた現実と乖離している。
習近平総書記が李克強前首相、そしてその出身派閥である団派(中国共産主義青年団出身という人間関係を軸とした派閥)をパージしたのは事実だ。昨年の党大会で李克強前首相は定年前の引退に追い込まれた。団派の次世代リーダーとみなされていた胡春華・前副首相は政治局委員から中央委員に格下げされている。
権力争いはあったわけだが、では政策まで対称的かというとそうではない。経済分野における習近平総書記肝いりの改革案は「生産要素の市場化改革」で、市場化のさらなる徹底を目指している。市場化の徹底という大きな方向性では両者に大きな違いはないと言ってもいい。
違いは大きな方向性というよりも細部に宿っている。経済低迷や不動産問題などのアクシデントが起きた時、中長期的な改革の推進に比重を置くか、あるいは短期的な課題の解決に重心を置くかといった姿勢の違いである。