痒くなった肌に身悶えしながらウルシについて調べる時、彼はそれを勉強だなんて思っていない。「痒い原因はウルシオールっていうんだって!」と知るのが楽しいだけである。
自然はこちらの写し鏡で、その人が感知できるものが少なければつまらなく見え、知識と好奇心を持つ者にとっては情報満載に見える。つまり教育は、感動の片棒を担いでいるのである。
自然体験を浴び、緻密さと冷静さと情熱が宿る
そのうち彼はどこに出かけても楽しめる体質になっていった。山に登れば草花を観察し、地形や地質、気候などを味わう。帰ってから気になることをいろいろ調べて楽しむので2度美味しい。
他の土地に行けば、同じ植物が南房総と違う顔をしていることがあり、その理由を調べる。彼にとって、南房総は自然観察のベンチマークだ。長年見てきた南房総の状態を基準に「南房総より〇〇だよね」と観察できるため、差異がより細かく見えてくるのが面白い。
海に潜れば「明らかに魚影が薄くなっている」「サンゴが増えてない?」と経年変化に気づき、その理由をまた調べる。あたかも気候変動と関連しているような事象でも、ただの年単位での変動範囲の場合もある。
事実に基づいた検証は冷静で、そうした眼差しを持つとネット情報への接し方も変化する。自然体験を浴びることは、一次情報の重要性を理解すること。無数に漂う情報のオバケに憑りつかれることなく、主体的に考え生きる姿勢にもつながっていく。
塾には行かせていなかったが、思えば一次情報に触れる体験時間はたくさんつくった。我が家がこどもに与えた贅沢はこの1点に集中している。
体験がフックとなり、知識を得ると「アレがコレか!」と喜びが自動生成されるようになったのではないかと振り返る。もちろん、成績を上げるためと狙ってやったことではない。あくまで二拠点生活の副産物である。
経験と知識は両輪あるから遠くへ行ける
大学受験期に入っても、息子はマイペースで過ごし、塾にも行かず、部活に命を懸け、相変わらず海や山にも行っていた。親からすると「いつ勉強するんだろう、この子は」となる。
ただ、そんなことをどうして知っているの? ということをよく知っていて、家族でいつも不思議がっていた。聞くと「前調べたから」としか言わない。何か気になるとすぐ調べる、というのを繰り返していただけで、おそらくそれを勉強と思っていなかったのだろう。
実際、受験期の勉強量は圧倒的に少なかったと思う。彼は幼小中学時代に自然遊びや読書で基礎的なことを勝手に学び、高校に入ってからの勉強はその土台を利用してやっていたように見えた。
もちろんたまに机で勉強していたが、ゲームのように問題を解くことを楽しんでいるようだった。大学受験の勉強と田舎暮らしの知識とは直結していないだろうが、「分かると楽しくなる」という感覚の延長に受験勉強があったのではないだろうか。