わたしたちは大人になると、勉強する時間があるというのはなんて贅沢なことだろうと思い知る。それは、忙しくて時間がなくなってから「経験と知識は両輪必要!」ということを痛感するからだ。
二拠点生活はこどもの頃から、その感覚を先取りする暮らしなのではないかと感じている。経験が、知識欲を誘って、知識がつくと今度は経験も欲する。この両輪が知らないうちにぐるぐる回って、知らないうちに遠くまで進んでいく。
これを逆手にとり、我が家は「家事に優先される受験はなし」という方針で運営されている。受験期だろうが受験日だろうが、決められた分担の家事はやる。
こどもたちはぶうぶう言っているけれど、そりゃそうかと諦めているようだ。勉強と生活は両輪どちらも外せないものだということを、受験が終わってからも続く人生で大事にしてもらいたいとの意図だった。
バリバリの理系だった息子は、なぜか東京大学法学部に入学した。自分の興味や得意とは明らかに違う。
どうやらふと「東大法ってかっこいいかも」と思ったことがあったらしく、深く考えずに選んでしまったらしい。そして「学部選びは本当にやりたいことを選んだ方が絶対いいぞ」と妹たちにアドバイスしていた。
二拠点生活が天職に導きました、とはならないものだ。合わないなら転部すればいいのに、ご丁寧に司法試験まで受けるという。
将来どんな仕事に就く気だろう。弁護士になる姿がどうも想像できない。そして本人は本当にそれでいいのか? いろいろナゾだらけだ。
こどもに持ってもらいたいのは生きる力
受験生の親の端くれとして、当然わたしも「3人とも自分の行きたいところに合格しますように」と願っている。合格して順風満帆な人生を歩んでもらいたいに決まっている。
が、実のところを言えば「まあ生きていてくれればいいや」と願い止めている自分がいる。合格の壁を越えようとする頑張りを応援するのも大事だが、それよりも壁を越えようが落ちようがこどもが死なないためのネットを足元でせっせと編む方を頑張っているのかもしれない。
そのネットが、二拠点生活だと思っている。
具体的に言うと「社会の中央でバリバリ働いてたくさん稼いで安定した未来がある」ことだけが幸せな人生ではないと知ってもらうこと。
田舎で知り合う人達の人生は実にカラフルだ。
他人の幸せばっかり考えて東奔西走する70代カメラマン、友人の小商いを応援することばっかり考えている丸の内勤務の50代コンサルタント、コーヒー焙煎と養蜂と狩猟をかけ持って子育てする40代PTA会長、毎日畑で作物の研究をしている80代おばあちゃん、台風で全壊した海辺の旅館を再生させようと食堂・キャンプ場運営に奮闘する20代と50代親子。彼らは歳に関係なく、学歴に関係なく、毎日新しいことを学んで生き生きしている。
都市企業で働く大人たちと接していて痛感するのは、そんな人生の多様性を知る機会に恵まれず、負け終わらないように必死に生きている人が多すぎるということだ。ちいさな枠の中で牌を取り合う受験を〝戦争〟だと思って頑張ってきた大人は、その後も社会で戦争を続け、こどもにも戦争を強いている。
受験は本当に戦争なのだろうか。戦争状態をつくって強迫しないと本当にこどもは勉強しないのだろうか。そうは思わない。大人の偏った経験則と価値観で、こどもを戦争に巻き込んまない方がいい。
勝ちなさい、ではなく、生きなさい、と伝えたい。そして勉強は幸せの感度を上げて生きるための行為そのものだと伝えたい。
たまたま筆者にとっては、それをこどもたちに伝える手段が二拠点生活だったのだと思う。