日本の「失われた30年」
根っこにあるものは何か?
バブル崩壊に際して日本が取るべき対策は二つあったはずである。一つは不動産バブル時の過剰融資によって生じた、銀行の不良債権の処理である。もう一つはバブル崩壊で内需が落ち込む分をカバーできる外需の拡大であり、そのための円安である。いずれの道も難路だった。
バブル崩壊により経営基盤の弱い銀行が、金融市場で揺さぶられだしていた92年8月。ある日銀OBからの電話に息を呑んだ。「日本債券信用銀行のドル資金調達がショート(途絶)しています。大手米銀のバンカース・トラストが取引を打ち切りました」。切羽詰まった声だった。
日本発の金融危機の第1波だった。この時、銀行に対して思い切った公的資金(税金)の注入を実施し、不良債権処理を促していれば、「失われた30年」は防げたかもしれない。実際、当時の宮澤喜一首相は三重野康日銀総裁と諮り、東京証券取引所の取引を一時停止して、銀行に対する抜本対策に踏み切ることまで考えていた。
だが大蔵省が打ち出したのは、一時しのぎの決算対策。公的資金の注入は、経営責任追及を懸念した銀行界が抵抗したばかりでなく、産業界からも銀行甘やかしであるとの反対の声に直面し、頓挫した。その後もバブルの負の遺産である不良債権は、日本経済の重圧となり続けた。
もう一つ、日本には円安どころか円高という重圧が加わる。スウェーデンなど北欧諸国も日本と同様に1990年代初頭に不動産バブルが崩壊に見舞われた。北欧諸国の場合は、銀行の一時国有化と並んで大幅な通貨安による輸出拡大で、経済のV字回復に成功した。日本はその道が塞がれていた。
「まず、円高」。93年4月の日米首脳会談後の共同記者会見。当時のビル・クリントン米大統領は、宮澤首相を横にして、日米貿易不均衡是正に有効な手段について、そう言い放った。ジョージ・ブッシュ(父)大統領に対するクリントンの大統領選キャンペーンの決め台詞は、「It's the Economy,Stupid!(経済が問題なのだ。ばか者)」。
クリントン大統領はソ連との冷戦が終わったのをきっかけに、安全保障から経済へと最優先課題の舵を切り、日本を「ソ連に代わる主たるライバル」と位置付けた。そして、日米の貿易不均衡を是正すべく、一時は1ドル=80円をも突破する超円高を仕掛けたのである。バブル崩壊の傷の深い日本にとってはたまったものではない。
クリントン政権は「ジャパン・バッシング(日本叩き)」とともに「ジャパン・パッシング(日本素通り)」を鮮明にした。日本が深刻な金融危機に陥っていた98年6月、日本を頭越しして訪中したクリントンは江沢民との首脳会談後、中国を「アジア経済の安定役」と褒めちぎり、日本を「不安定要因」と厳しく批判した。
90年代以降のクリントン、バラク・オバマの民主党政権の中国傾斜。それは中国を冷戦後の投資フロンティアと位置づける米国の産業界の利益とも一致していたのだが、日本の経済的な立ち位置を非常に厳しいものにした。彼らは一体誰の味方だったのか。
日本の自動車やエレクトロニクス産業が不調に陥ったのは言うまでもない。生産拠点の海外移転は加速した。製造業の海外現地生産比率は90年の4.6%が、2000年には11.1%となり、アベノミクスの登場で円安に転換する前の12年には20.6%まで上昇した。
その後、ペースは鈍化したとはいえ、23年の実績見込みでも23.9%に上る。日本企業の雇用や設備投資の舞台が海外にシフトした分、国内経済は不活発になった。こうした国内の本業衰退と世界における日本の成長抑圧が「失われた30年」の根っこにある。
幸いにもその逆風の時代は終わった。それが証拠に本稿の冒頭に示したような光景が見られる。次号の後編では、現在の日本に吹く〝追い風〟とは何なのか、そしてそれを逃さないためにはどうすべきなのかを示したい。