車椅子バスケに転向 練習の鬼と化す
星は18歳でストーク・マンデビル競技大会に出場の際、本稿冒頭の「失ったものを数えるな 残されたものを最大限に活かせ」というルードヴィッヒ・グッドマン博士の言葉に出合い、競技者として目覚めた。帰国した星はより競技性の高い車椅子バスケに転向し、一気に魅せられていったのである。
18歳で静岡県の会社に就職した。車椅子バスケットボールチームがあるという理由からだ。
「このボールが擦り切れるまで練習しろ」とコーチからボールを一つ渡された。若かった星はレギュラーではなかったが毎朝6時から一人で練習した。考えられないことだが、ざらざらとした当時のコンクリートの上では車椅子のタイヤも1週間ほどですり減った。それだけ練習量が豊富だったということだ。
いかに星が負けず嫌いなのかを表すエピソードである。
「努力は人を裏切らない」。
練習の鬼と化した星は日本代表へと駆け上がっていった。
「神様はね、自分には才能を与えてくれなかったけれど、練習する時間は与えてくれたんです。バスケットができる環境を重視して仕事を選んでいたので練習する時間はありました。他の代表メンバーもやりたいだろなぁと思っていましたね。そんな中で自分には練習する時間があるので、サボりたいと思った時も自分を叱咤激励して練習していました」
「その頃の自分にはバスケのことしか頭になかった。国内で勝ったとか、負けたという意識はあっても、日本のバスケが世界の中でどれくらいのレベルなのかを確かめたかった。目の前の勝利よりも、その気持ちの方が強かったんです」
海外の高い壁
日本の車椅子バスケットボールが世界にデビューしたのは1976年のパラリンピックトロント(カナダ)大会からだ。しかし、勢い込んで出場した日本代表だったが、マンツーマンでアメリカ代表にディフェンスされると動くことができなかった。結果は予選リーグ敗退。
「国内なら通るパスが簡単にカットされたり、シュートしようとした瞬間に手が伸びてきたり、身体のサイズがまったく違ったんです。日本人では考えられないプレーがいっぱいでした。それからは身体の違いを意識しながらやるんですが国内では感覚が養われません。海外に行って高さに慣れる以外ないんです。ですが、当時はなかなか行く機会がありません。行くにしても選ばれた選手が数名で、あとは仕事とかお金の面で何とかなる人が行き、メンバーを揃えていました。だから慣れると言っても当時の日本代表は難しい状況にありました。パラリンピックに出場しても、高さに慣れる頃に終わってしまうのが日本の車椅子バスケでした」