その頃の星は東京の印刷会社に転職していた。スポーツに深い理解を示した社長で、国体、パラリンピック、世界大会、合宿等、国内海外を問わず気持ち良く「行ってこい」と送り出してくれる人だった。
「仕事の前に駒沢公園に行って練習していました。朝は1人で走ったりパスの練習をしたり、仕事が終われば毎日神奈川県や埼玉県まで飛び回ってどこかのチームといっしょに練習です。
チームスポーツはみんなが練習しなきゃダメなんですよ、全体が練習しなければ強くはならないんです。でも、みんな仕事があるので集まって練習する時間なんてないんです。そんな背景がわかるだけに言えませんしね。だから1人でも頑張って練習するしかないと思っていたんです」
練習中の星は怖くて話しかけられなかったという話が残っている。特に地方の選手には神格化して伝わってしまい「そんな大げさな」と思いながらも、それを励みにしていた。
話は逸れるが、このパラリンピックトロント大会では、車椅子バスケ以外に車椅子陸上の1500メートル、100メートル、得意のスラロームにも出場していた。
「バスケットがメインだったんです。でもスラロームで金メダルを取りました。異国の地で君が代を聞いてとても感激しました。スラロームは車椅子のテクニックを覚えるのに最適な競技でした。でも今は転倒防止があるからそんなテクニックを使わなくても安全になったんです。器具が改良されて、良くなる度に技術は衰えていくんです。街中でも段差があると上がれない人がいっぱいいるはずです。街がバリアフリーで段差が少なくなってきたのも理由ですが、段差を越えるテクニックも失われてきたのかなと思います。便利になれば何かを失います」
星は車椅子バスケットボール選手として1988年のパラリンピックソウル大会まで3大会に出場し、42歳で次回出場を断念し引退した。コーチとして留まるように引き留められたが「身体は動くから、他の競技に挑戦したい」と車椅子バスケ界を後にした。
車椅子テニスへ
国枝慎吾の基礎をつくる
次のチャレンジを車椅子テニスにするか車椅子陸上にするか迷った。どちらも好きだったが、まだまだ発展途上だった車椅子テニスを選んだ。
チームスポーツから個人スポーツへの転向に違和感はなかった。バスケ時代も一人で練習している時間が長かったからだ。
星は転向後も休日ともなれば関東近郊を車で移動し、練習に励んだ。