車椅子テニスを始めて数年、縁あって千葉県柏市のTTC(公益財団法人 吉田記念テニス研修センター)で車椅子テニススクールを受け持つことになった。指導を受けていたコーチから「星さんが稼げることをやりましょう」という提案があったからだ。
クラスは6つ。スクール生は小学生から高校生までが通っていた。その中に車椅子テニス世界ランキング1位(2013年12月12日現在)の国枝慎吾がいた。当時は小学4年生のシャイな男の子だった。
「僕が練習する時に国枝を呼んでマンツーマンのような形で基礎だけを教えました。彼が高校生の時に僕がコーチを辞めたので、別のコーチが担当することになりました。そこからメキメキと強くなっていったと思います。自分は基礎だけを教えて次のステップに引き継いだ形です。彼は絶対に諦めないでボールを最後まで追いかける子でした」
星は挑戦した。けれど、車椅子テニスでもう一度パラリンピックに出場するという夢は叶わなかった。
現在は東京都障害者総合スポーツセンターで車椅子テニススクールを開いている。
「以前後天的に車椅子の生活になってしまった子がいました。お母さんのせいだと言ってひどく責めていたんです。荒れて、荒れて大変でした。その後ここに来たので『テニスをしないか』と誘ってみたところ、始めたら急に子どもが変わってお母さんがびっくりです。狭い世界に閉じこもっていると、自分が一番不幸に思えてきてしまう。社会と接することだったり、こういう施設でスポーツをやったりすることで、世界が開けていきます」
「障害者本人と家族だけでいるのはまずい。表に出ていろいろなものを知り、同じような境遇の人が頑張っている姿をみればその子も頑張れるんじゃないかなぁ。高校生が怪我をして車椅子の生活になったら、目の前が真っ暗になってしまいます。だけど同じような人たちと接すると本人も前が向けるようになっていきます。もちろんスポーツで全部を救えるとは思いませんが、その子なんかは車椅子テニスを始めてから明るくなって、今ではお母さんと一緒にお料理をするようになったそうです。それはやっぱりスポーツがその子の希望になっているからだと思います」
「いい素材が2、3人います」と星は7年後の東京パラリンピックを見据えて、子どもたちの成長を楽しみにしていると語っている。だが、本音のところでは、「もう1度自分が出たい」と心の内で炎が逆巻いているのではないだろうか。そんな気がする。
<星義輝プロフィール>
1948年 福島県に生まれる。
1965年 第1回「全国身体障害者スポーツ大会」に出場(岐阜県開催)
1976年 パラリンピックトロント大会に出場 車椅子スラロームで金メダル
1980年 パラリンピックアーネム大会に出場
1984年 パラリンピックエイルズベリー大会が急遽中止となり、ストーク・マンデビル競技大会に出場。
1988年 パラリンピックソウル大会に出場
1990年 車椅子テニスに転向(世界ランキング最高位12位)
2012年 「全国身体障害者スポーツ大会」47年ぶりの岐阜県大会に出場。
~2013年現在は東京都障害者総合スポーツセンターで車椅子テニススクールを開催。
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