2024年7月22日(月)

君たちはどの主義で生きるか

2024年7月22日

 龍馬は尊王攘夷派の仲間なので、そちら側の視点では、新選組は憎い敵になります。

 それから龍馬のドラマや小説で池田屋のシーンが出て来るたび、私は逆の大興奮です。ウオォ~行け尊王攘夷派志士‼ たった4人で殴り込みとはナメ腐りやがって新選組‼ 権力の犬どもなど革命戦士・攘夷派が返り討ちじゃっ!!! おっ、よっしゃ、沖田が血ぃ吐きやがったぞ‼ ざまあっっwww!!! 今やっ、その軟弱野郎を囲んで串刺しやっ!!! おいっ、藤堂平助の額斬った奴、まだ藤堂生きてるやないか‼ もっと顔面真っ二つになるくらい気合い入れて叩き割らんかいっ!!! 確実に殺さんかい藤堂のボケをっっ!!! 急げっ、もうすぐ土方のボンクラが仲間のチンピラを連れて加勢に来るぞ!!! 負けるな尊王攘夷派志士‼ ファイト尊王攘夷派志士‼

 ……と、我を忘れて志士たちを応援したものです。

 で、その後また新選組のドラマを見ると、

 このドグサレ尊王攘夷どもがっっ!!! 徳川様に弓引くカス侍どもは地獄の制裁を受けろやっ!!! ああっ沖田大丈夫か~~っ、がんばれ、俺がついてるぞ‼ 土方さんが来るまで踏ん張れ‼ 負けないでもう少し最後まで走り抜けて沖田~~っ‼ I was born to love you 沖田~~~っ!!! と……(以下略)

 ………………。

 とまあ、そんな口の悪い日和見を繰り返しつつ、最終的には「新選組も攘夷派志士も、みんなちがって、みんないいよね」という、金子みすゞさんの境地に今の私は達しているのでした。

さて。

これが、相対主義です。

 つまり、AとBの2つ(あるいはそれ以上)の意見がある時に、どちらかひとつだけを絶対的な善とするのではなく、「どちらにも正しさはある」と考える姿勢。「どちらが正しいのか?」ではなく、「正しさは立場によって異なる」、そして最後には「どっちもいいよね」「全部ありだよね」に到達するのが相対主義の考え方です。

「人はみな、自分なりの主観的な物差しで認識する」

 世の中には様々な価値観があります。特に現代社会では、モラルも宗教も礼儀も生き方も趣味趣向も、無限の様式が存在すると言っていい。

 そんな中で、「お釈迦様は認めるけどキリストは認めないよ」「異性愛は認めるけど同性愛は認めないよ」「きのこの山は認めるけどたけのこの里は認めないよ」「『鬼滅の刃』の禰豆子の身体再生能力覚醒は認めるけど鬼舞辻無惨消滅後の竈門炭治郎の鬼化は認めないよ」などといちいち争っていたら、キリがありません。

 みんなちがって、みんないい。私とあなたは違うけれど、どちらも同じくらいいいよね。とするのが相対主義です。

 相対主義は、紀元前5世紀、今からおよそ2500年も前にこの世に生まれました。古代ギリシア・アテネで民主制が発展したことにより、政治家の弁論術として考案されたのが発端です。

 古代ギリシアの哲学者プロタゴラスは、「人間は万物の尺度である」という言葉を残しています。

 「尺度」は、定規とか物差しのこと。人間は万物の尺度というのは言い換えると「人はみな、自分なりの主観的な物差しで物や事を認識するのだ」ということです。主観的なので、人によってバラバラというのがポイント。その人がどのような尺度を設定するかによって、物事の受け止め方や評価はガラッと変わるんです。新選組の側に立つか龍馬の側に立つかで善悪の概念も180度変わってしまうように。

【後編】へ続く

 
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