町田明広さんの『人物から読む幕末史の最前線』(インターナショナル新書)はタイトルの通り、最新の史料に基づいた人物による幕末維新史。幕末史のきっかけとなったマシュー・ペリーと、井伊直弼から五代友厚まで10人の日本人、計11人を取り上げている。
ただし、通常「維新の三傑」と呼ばれる木戸孝充、西郷隆盛、大久保利通の3人は、日本人10人の中に入っていない。なぜなのか?
「歴史上の人物にはバイアスがかかりやすいんですね。西郷や大久保はいつの間にか幕末維新のヒーローになってしまい、やってもないことまで彼らの業績とされています。それらを点検し、最新の研究に沿って虚構を排除し、変革期の政治史の評価をやり直したい。そんな思いでこの本を執筆しました」
徳川慶喜の側近で、歴史上埋もれていた平岡円四郎を登場させたのもそんな思いから。
町田さんによれば、平岡は慶喜の将軍継嗣問題期を全面的に支え、将軍後見職の頃の文久の改革や、朝政参与期の薩摩藩との暗闘などで活躍した。「慶喜が歴史に名を残せたのは平岡のおかげ」と高く評価するのだ。
「通読して強く印象に残るのは、最後の将軍徳川慶喜と、薩摩藩主島津忠義の父で“国父”と呼ばれた島津久光の2人ですね。大きな流れが、2人を巡って巻き起こった?」
本書では、慶喜はペリー来航から鳥羽・伏見の戦いまで、幕末15年間の全期に顔を出す唯一の人物とされ、久光も「政治の舞台を京都に移した剛腕政治家」と記される。
「2人とも、確かに幕末史の中心人物でしょうね。もっとも、慶喜は本心を述べた記録がほとんどないので、真の姿がなかなか見えない人物ですし、久光の方は、島津家の史料公開が1970年代以降までずれこんだことにより、幕末の藩事情を含め、久光や薩摩藩の研究自体が始まったばかり、とも言えます」
早く生まれすぎた現代人
まず、1853年のペリー来航時に16歳で次期将軍候補と目されていた慶喜である。
前半には文久の改革(西洋式兵制の導入)や禁門の変(1864年)での官軍総司令官などで八面六臂の活躍をしたが、後半になると独断専行が目立ち、薩摩に見限られた後、鳥羽・伏見の戦い(1868年)で江戸に逃亡して最終的に「朝敵」となってしまう。
「そんな慶喜を、町田さんは“早く生まれすぎた現代人”と評しています。理由は何ですか?」
「考え方が近代的・論理的なんです。プレゼンテーションの力も問題解決能力もあります。現代に生まれてもきっと力量を発揮できたでしょう」
慶喜は御三家(水戸家)の出身で皇族の血も引く、生まれながらの「殿様」。聡明さで知られ、即断即決を旨とした。だが、将軍に就任すると説明不足、根回し不足が露呈。参与会議(1864年)で遂に久光の薩摩藩を敵に回してしまう。孤立化への道だった。
「あれだけ聡明でも、将軍になったせいで徳川家存続が至上命題になってしまった。近代的知性が、近世的縛りに足を掬われた形ですね」
島津久光の野心
次いで島津久光。久光は文久2年(1862)に1000人の藩兵を率いて上京し、朝廷の権威を借りて幕政の人事に介入しようとした。町田さんはこれを「幕末の大事件」と呼ぶ。以後朝廷の地位が急浮上し、西国雄藩が政局に参加し始め、京での尊王志士の活動が活発化するからだ。
「久光の狙いは何だったんでしょうか?」
「当時評価していた一橋慶喜と松平春嶽を幕政に登用することですが、この時点で久光の藩内基盤は脆弱でした。なので、異母兄の前藩主・島津斉彬の遺志を継ぎたい、“未来攘夷”の方針を継承して自分も中央政局に打って出たい、という野心もあったと思います」
結果は狙い以上だった。尊王志士を弾圧した寺田屋事件を機に、久光は孝明天皇の信頼を得て、突然政局の中心場面に躍り出たのだ。
続く生麦事件、翌年の薩英戦争(1863年)や禁門の変を経て、薩摩藩は独自の貿易・富国強兵策を取り、幕府に距離を置き始める。
「久光は抗幕、ついで廃幕に舵を切りました。でも武力ではなく、あくまで幕府の外交権を奪うことが目的でした。長州藩をパートナーにして倒幕に踏み切るのは、鳥羽・伏見の戦いの直前だったと考えられますね」
本書によれば、久光の幕末維新期の願望は一貫して「緩やかな結合の連邦国家」だった。外交は日本国が担うが、内政や個々の通商案件は各藩の独自性に任せるというもの。