2024年12月12日(木)

オトナの教養 週末の一冊

2023年12月8日

 京都を語るときには決まり文句がある。

「古くて新しい町」「保守と革新の共存」「空襲がなかったから古い町並みが残った」「京料理は和食の代表である」等々。

 これらの紋切り型表現に、すべて具体的な証拠を分析・反論、新たに「現実の京都」像を提示しているのが、京都大学名誉教授として半世紀以上も京都と関わってきた経済学者・有賀健さんによる『京都 未完の産業都市のゆくえ』(新潮選書)である。

「〈あとがき〉によると、本書の問題意識が芽生えたのは2016年から20年まで、留学生向けに京都の町の特徴や歴史的背景を講義していた時だった?」

「はい。いろいろ調べると、京都の人口が日本の総人口に占める割合のピークが1939年、昭和14年なんですね。明治維新以後の京都は衰退のみ、という印象なのにそうではない。このことから、目の前の京都を語るには維新後現代までの近代史が非常に重要とわかりました」

 京都は江戸時代から西陣織などの手工業の町だった。それが大正から昭和にかけて、道路・水道網や市電など交通・社会インフラの整備や、市南西部での機械など製造業の発達で成長を遂げた。だが、都市としての京都の最大の特徴は、戦後になって停滞が続いたことだった。

 先ほどの人口割合のグラフを見ると、1960年代以降に人口比率の低下が起きているのだ。

「京都の産業化を阻んだ一大要因」

「戦後、多くの都市は中心部で再開発が進みました。東京、大阪に限らず、仙台・名古屋など城下町を前身とする多くの都市は、戦後復興から高度成⻑期にかけて狭隘な中心商業地区などの区画整理事業を行ったことが重要です。ところが、都心部に昔ながらの地籍が残った京都はそうではありませんでした」

 京都の都心〈上、中、下京区〉は、町衆(自営業者とその家族)の居住区域だった。多くは西陣(織)、室町(卸)などの絹織物関係者である(彼ら町衆の祭りが祇園祭の山鉾巡行)。

 その町衆の住む町家が高度経済成長期を経ても都心に残り続けたことが、「京都の産業化を阻んだ一大要因」と有賀さんは見る。

「京都の主人公の町衆は、地元優先で部外者の参入を嫌い、大資本進出にも反対でした。この景観保護、反中央の意識が、戦後7期28年の“革新”派蜷川府政にも結びつきます」

 つまり、京都に古い町並みが残ったのは、「空襲を免れた」せいではなく、「保革の共存」を含めて、町衆の利害意識が一般の市場論理と食い違っていたから、と指摘する。

京都の「南西回廊」

 では、京都発のハイテク産業はどうか?

 京都には、都心ではなく郊外だが、任天堂、ニデック(旧日本電産)、村田製作所、京セラ、オムロンなど、世界的に有名な電機、機械、化学関連の大企業が集中する。

「私は南西回廊と称してますが、右京・西京・南、伏見区などに一群の成長企業が立地しています。上位8社のみの株式時価総額が24・5兆円にも達します」

 これらハイテク企業は戦後の設立であり、大半が高度経済成長の後半に急成長を遂げた。製造業の土台は戦前の紡績工場や戦中の軍需工場にあったが、本社がいずれも都心部にないように、京都の伝統産業である絹織物や各種技術とは直接的な関係性を持たない。その意味では、「古都だから、最先端技術が生まれた」わけではないのである。


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