「もっともフランス的な日本人」と評されるほどヨーロッパで支持され、芸術家としての人生のほとんどをパリで過ごした荻須高徳(おぎす・たかのり)。その美術館が建つ洋画家の生地は、意外にもじつに日本色の濃い町でしたーー。
荻須高徳はパリの風景画家である。パリだけでなくヨーロッパの他の場所も描いているが、やはりどうしてもパリだ。若いころ渡仏して、油絵でパリの街並を描きつづけた。大戦中はやむなく帰国したが、戦後は日本人一番乗りでパリに戻り、最後までパリの風景を描きつづけた。そしてパリで死んだ。パリがなかったら、という想像が不可能な画家である。
荻須が生きたのは、パリに強い吸引力のあった時代だ。絵の世界で印象派という革命のようなことが起きた後、そこで解き放たれた画家の力が渦巻いた状態をエコール・ド・パリと呼んでいる。荻須高徳はその後半部分に飛び込んだ。そんな渦巻が抽象絵画に向うと、ステージはアメリカ、ニューヨークへと移っていくが、荻須の時代のアメリカは、まだ軽い印象しかもたらさず、パリこそ芸術の空気の濃厚な街だったのだ。
美術館は名古屋から北へ少し上った稲沢市にある。稲沢は昔からの由緒ある町だそうで、国府宮(こうのみや)神社のはだか祭が有名だ。旧の正月13日にさらしの褌(ふんどし)と白足袋だけのはだか男たちが数千と集り、この神社でもみ合う。そういう日本色の濃い町に美術館はあり、しかし館内にはパリの街並を描いた絵がずらりと並ぶ。考えたら不思議なことだ。
理由はもちろん、荻須高徳の出身地である。荻須はここで少年時代を過し、その後上京して東京美術学校(現東京芸術大学)に学ぶ。同級生に猪熊弦一郎、岡田謙三、小磯良平、山口長男(たけお)などがいる。
同じパリの風景画家である佐伯祐三は三つほど先輩で、佐伯が帰国したとき、荻須はパリでの生活の実際などを尋ねに訪れている。パリへの憧れは同じで、パリ生活でもいろいろ行き来があったようだ。
佐伯祐三の絵は、病で早死する生涯の内圧もあってか、印象が強い。建物の描き方もそうとうエモーショナルで、筆先が画面をうねりながら飛び跳ねている。とくに壁に貼ったポスターの文字の描写に、それは顕著だ。