同年9月には第二次世界大戦中のユダヤ人をガス室に送ったナチスの惨業を「歴史の些細な出来事」と述べたが、それらはいずれもルペンの差別主義的な「悪魔」の一面を見せつけた。90年5月10日には南仏カルバントラのユダヤ人墓地でいくつもの墓への落書きや遺体が掘り起こされ、串刺しにされたユダヤ人墓地陵辱事件が起こり、フランス中が騒然となったこともあった。
当時左翼系市民団体「SOSラシズム」や反ファシズム・人道団体は再三、抗議集会を組織したが、こうした抗議行動の拡大は、逆にFNの存在を社会的に強く印象付けることにもなった。
FNの躍進
そして筆者が初めて演説を聞いた時から十年もたたない88年4月の大統領選挙第一回投票では、ジャンマリー・ルペンは保守派シラク首相とミッテラン社会党大統領両候補に次いで第3位となった。
FNがフランス政界で一政党として認知されたのは、84年6月欧州議会選挙でルペン筆頭のFNリストが11%の得票率で10人の議員を排出したときからであった。もはやコンマ以下の支持率の泡沫政党ではなかった。
その後85年県議会選挙では8.68%、86年3月国民議会・総選挙(下院選挙)でFNは10%の支持率を得て初めて議席を得、35人もの代議士を議会に送りこんだのだ。この選挙が例外的な比例代表制で行われた結果だったが、その後の地方選挙でも10~13%以上の得票率を記録し、88年の大統領選挙第一回投票では、ルペン候補は14.4% を獲得したのである。
決選投票直前のオペラ座前広場の支持者集会に参加していた筆者は、あきらかにアラブ系と思われる支持者も混じっていたことに驚いた。この党は十年の間に大きく変容した。
決選投票でルペンはだれを支持するのか。立錐の余地のないほどの大群衆の前で、ルペンはこう言った。「(ミッテランとシラクのどちらかを選ぶかは)最悪と悪の間の選択です」と。多くの人はシラク支持を意味するととらえたが、4、5年年前までは泡沫政党にすぎなかったFNは大統領選で台風の目となっていた。
さらにその後欧州議会選挙や地方選挙でも躍進は続き、11%以上、県議会選挙では20%を超える得票率をえるまでになった。そして95年大統領選挙第一回投票では15.3%の支持率を得て、第2回投票でルペン支持票が左右(社会党と保守派)の命運を決するかのような緊張感を人々に与えた。
社会福祉を重視する「ナショナリスト左翼」社会福祉ナショナリズム
80年代後半からFNは移民取り締まり強化政策の一方で失業・社会保障重視の政策を強調し始めた。脱悪魔化の第二期だ。
排外主義者だけではなく、貧しい者たち・勤勉に働く庶民の顔が大きくなっていった。移民排斥は、外国人労働者によるフランス国民の失業増大と治安の不安定を招く「外国人・移民=失業・治安悪化」という図式の論法は次第に人々の間に浸透してきた。
1995年大統領選挙では全労働者のうちもっとも支持を受けたのはルペンだった。FNの拡大は社会不満の発露という多分に社会的な現象と捉えることができよう。労働者・下級事務員・失業者の投票がFNの得票率全体の90年代半ば46%を占めた。当時「波、ルペン」や「ルペン、人民」などの上げ潮ムードの表現の中には、エリートに対抗する大衆政党としての期待がこめられるようになった。
このころのFNの躍進を支えたのが、党の近代化・政策や表現の穏健化、「普通の政党化」を推し進めた高級官僚出身メグレ主導の党運営だった。党組織の改編と拡大戦略はその後マリーヌ・ルペンが父親を引き継ぐ少し前から、再び主流となり、今日の同党の躍進につながっている。しかしそれは古参の党員やジャンマリー・ルペンとはそりが合わなかった。
両者は反目し、99年欧州議会選挙は分裂選挙となった。ルペン派は5.7%、メグレ派は3.3%で二つ合わせても9%に届かず、FN極右勢力の低迷を印象付けた。