2025年1月16日(木)

世界の記述

2025年1月16日

「ルペン・シンドローム」—ルペン絶頂の時

 しかし低迷するFNだったが、02年5月の大統領選挙第一回投票で予想を大きく覆してルペンが決戦投票に名乗りを上げた。誰もが、第二回投票はシラクとリオネル・ジョスパン現職首相(社会党)の対決になると考えていた。ところが、僅差ながらルペン党首が残ったのだ。結党以来苦節30年、ルペンは「勝った」と雄叫びを上げた。ルペンの頂点だった。 

 しかしそれは極右FNが台頭することをフランス国民が認めたことを決して意味したわけではなかった。むしろ大政党主導のマンネリ型政治に人々は倦んでしまったからだった。既成大政党に対する国民の「制裁」の背景には、国民の政治離れがあった。

 それは決選投票までの期間、パリをはじめフランス全国各地で「反ルペン」のデモが組織されたことに示されていた。パリ・リパブリック広場での抗議集会では「エフ・エーンヌ(「エーンヌ」とは「憎しみ」の意味。FNと掛詞になっていた)」のプラカードが林立していた。

 ジョスパン候補の無気力と大政党離れの風潮からたまたまルペンは決選投票にまで進んだが、決選投票では目標にした25%には遠く、18%以下の投票率にとどまり、結果は大惨敗だった。

世代交代とルペンの真骨頂

 90年代末からの党の分裂以後の凋落は著しく、この敗北はFNにとって大きな打撃となった。その後は保守派の右傾化政策の前にFN勢力は封じ込められた。

 とくに07年に誕生したサルコジ大統領(保守派「国民(人民)運動連合UMP」)は、選挙期間中より、ルペンに勝るとも劣らずの治安強化策を標榜し、極右内部の潜在的な保守支持層の切り崩しにかかった。その結果UMPは極右の一部を吸収することに成功、他方でFNは厳しい雌伏の時代を再び繰り返すことになる。ポピュリズム(大衆迎合)政党である限り、時代の流れに機会主義的に対応するわけだから、時代の大きな波の狭間で浮沈を繰り返すことは不可避だ。

 そうした中、今世紀初頭の先の大統領選挙以後、頭角を現してきたのが三女のマリーヌ・ルペンだった。次回以後述べることになるが、彼女の指導下でFNはその路線を修正していった。11年に彼女が党代表となり、女性党首による党イメージの穏健化の一方で、「ライシテ(政教分離)」の原理を前面に打ち出すことを通じて、反社会的対抗勢力「アウトサイダー」から「共和主義政党」への衣替えを推し進めていった。

 それにもかかわらず、父ジャン・マリは02年以後も反ユダヤ・排外主義を標榜し、党首を引き継いだ三女マリーヌ・ルペンとの軋轢を大きくしていく中で党内での影響力を後退させ、次第に政治舞台の後景に退いて行った。10年に引退後名誉党首の称号を受けたが、14年にFNを批判したユダヤ人歌手パトリック・ブリュレルに対して「窯に入れてやる」と反論、その表現がアウシュヴィツ収容所を連想させる表現だったために、物議を醸した。

 娘のマリーヌ党首は翌年父ルペンの党員資格を停止・除名、18年には名誉党首の職もはく奪したことから、裁判沙汰にもなった。数年前には大部の自伝を発行するなど次第に隠遁した政治家の面持ちを強めていた。

 排外主義と極端なナショナリズムを標榜し続けたルペンはフランス極右ポピュリズムの礎を築いた人物であった。もちろん、17年と22年の2回の大統領選挙でマリーヌが決選投票に残るまでにこの勢力が拡大していった直接的な功績はマリーヌ自身のものだ。今世紀初めからの衰退の復活は彼女のイニシアティブによるものだ。

 しかし結党直後の73年総選挙でのコンマ以下の泡沫政党から15%政党にまでしたのは創立者父ルペンの功績だ。その極右の地盤を死守しつつ、共和主義原理を取り入れて既存の保守派大政党の切り崩しに成功し、30%政党にしたのが、三女マリーヌだった。新たな「脱悪魔化」だ。

 ルペン死去直後、大統領府はルペンの評価は「歴史の審判にゆだねられている」と断言した。この人物の評価は今後毀誉褒貶を繰り返すであろう、その最初の試金石は、次回述べる予定の三女マリーヌ・ルペンの今後の双肩にかかってくるであろう。

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