2025年1月16日(木)

世界の記述

2025年1月16日

 ジャンマリーは中学・高校時代には全科目の半分でトップの成績優秀者だった。読書家の父の影響でフランス的人文主義の教養を身に着けていた。後に政治家となってからもその発言には顰蹙を買う下卑た言葉が口を突いて出たが、右翼の一見あらぶれた頭目に人文的教養があることは意外な印象を与えた。11歳までしか教育を受けていない母は、針仕事で生計を立て、息子の進学を望んだ。

 ルペンは少年時代にムール貝を売り歩き、長じて祖父と漁に出て、大学時代には休暇にベルギーの炭鉱で働いたこともあった。いったん漁に出たら睡眠時間もろくに取れないが、重労働ではあっても炭鉱の仕事は生活にリズム感があって快適だと、この青年は嘯(うそぶ)いた。

 ルペンはその後パリ大学に進学した。寒村出身の一青年は同時代の学歴エリートになったのだ。フランスでは戦後1950年代までバカロレア(大学入学資格)取得者の同年齢人口比率は5%に満たなかった。大学進学者はさらに少ない一握りの人数だ。

 ルペンは法学部学生組合運動に参加、後にその議長をつとめ、大統領に進言する経験もした。左翼との論争には必ず出て行って熱弁をふるったが、雄弁であったことは多くの人の認めるところでもあった。

 学部終了後、ルペンは「弁護士職業適性証書」を取得し、法曹界での将来も嘱望された。高額収入のポストも保証されたが、安定した法律家としての道を選ばず、冒険的愛国者義者ルペンは54年旧植民地ベトナムでの戦争にパラシュート部隊の一員として従軍した。

 帰国後は小商店の課税反対運動を端緒とするポピュリズム「プジャード主義」として知られる反政府活動に加わり、56年の国民議会選挙で史上最年少の27歳で議員に当選した。この時代、議員でありながら、ルペンは57年夏、志願兵としてアルジェリアに従軍した。大統領の特別許可のたまものだった。

 帰国後は勢力を後退させたブジャード派から離脱し、今度はアルジェリア独立反対運動を標榜する運動「戦闘員国民戦線(FNC)」を結成、「フランスのアルジェリア」(アルジェリア独立反対)運動の急先鋒として各地で集会を組織した。この当時ルペンは国会議員補欠選挙で独立反対派のアルジェリア人青年を擁立したが、当然その選挙キャンペーンは暴力沙汰の惨事となった。

 ルペンは地面に放り出され、靴で顔を強く蹴られ、その左眼球は眼窩を飛び出してしまった。この時からルペンは左目が不自由になり、黒い眼帯をつけるようになった。それは「不気味な」極右ナショナリストの頭目にふさわしいシンボルとなった。

「対抗文化」としてのFN立ち上げ

 ルペンを代表とする極右勢力を統合する国民戦線FN(当初は「フランスの統合のための国民戦線(FNUF)」)は72年10月に結成された。当時、極右勢力の中心はネオファシスト「新秩序ON」、ヨ-ロッパ・ナショナリスト、アルジェリア独立反対の秘密組織OASの残党、プジャ-ディスト・王党派・キリスト教保守伝統主義者など右翼の直接行動主義者を含んでいた。

 60年代ドゴール派全盛の時代、極右は低迷し、他方で68年5月の騒動で左翼は盛り返していた。「新しい左翼」の誕生だった。一言で言えばFN結成はそうした政治情勢の中での翌年の総選挙に備えた極右諸勢力の結集だった。

 しかし翌年の総選挙では惨敗した。当初より議会政治を重視するルペンらとONを中心とする直接行動に重きを置く愛国主義・ナショナリストたちの反目があった。それはこうした極右運動につきものだった。

 近年の飛躍的FNの議会進出を「脱悪魔化」の象徴として指摘する識者がいるが、それは正確ではない。議会進出は結党当初からの課題であり、それをもって「脱悪魔化」というなら、それは結党直後からの路線の一つだということになる。

 その後のFNの勢力拡大とは、まさに極右勢力特有の直接的行動主義と議会政治主義の摩擦の克服の歴史だった。それはこのような暴力的な体質を持つ政治運動の「永遠のジレンマ」でもあった。実際に結党時の中心的勢力であったONは離反していき、すぐにもこの政党は解党の危機に瀕したのであった。

 その意味ではルペンはFN全体の中ではむしろ中間派や秩序派というべき立場であった。しかし生来の熱血と感情的な資質は対抗勢力を脅かし、また嘲笑の的となった。多くの舌禍事件も起こした。87年5月、「エイズ患者の隔離所」を提案、それも「ユダヤ人死体焼却炉」の地口による造語を用いて差別とナチスのユダヤ人虐待を茶化す発言を行った。


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