2025年12月5日(金)

世界の記述

2025年1月30日

宿命である極右政党トップの末娘

 マリーヌ・ルペンは1969年 パリ郊外の裕福なヌイイー市で父ジャン・マリ・ルペンの三女、三人姉妹の末っ子として生まれた。その生まれ育ちには、父ルペンの存在がついて離れなかった。

 少女時代のマリーヌに大きな影響与えた事件は、1976年11月2日にバリ十五区ヴィラ・ポワリエ(Villa Poirier)の自宅アパートで起きた爆弾テロ事件だ。ルペン家族が住むアパートが崩壊するような爆弾が仕掛けられ、当時大きな話題となった事件として新聞の第一面でも大きく報じられた。

 テロ事件が起こるたびに、マリーヌは自分こそ爆弾テロの犠牲者だと後々繰り返して述懐する。実はルペン家に爆弾がしかけられたのはこのときだけではなかった。

 しかし警察当局は当時極右勢力間の抗争事件としかみなさなかった。犯人逮捕のため警察当局が本気で事件解決に向けた捜査をしたのか、マリーヌには後々まで疑問だった。警察当局は、容疑者2人を逮捕したが、その後証拠不十分で容疑を取り消し、そこで捜査は打ち切られた。

 この事件以来、自分の父が特別な人間であること、世間の誹謗中傷から擁護すべき存在であると彼女は確信した。極右はしばしば暴力集団のように語られるが、自分たちこそテロの犠牲者だ。マリーヌの偽らざる本音だった。この事件は後世彼女の治安問題の発言の根源に沈殿した記憶となった。

 ルペンという特殊な名前、世情をにぎわす父ルペンの言動は、彼女に自分が排外主義を掲げる反社会的な特別な政党の家族であること、普通の家庭の子供ではないことを否応なく自覚させるものだった。

父ルペンへの敬意、そして父を超える

 しかしマリーヌはそんな一家の主人である父ルペンの精神的味方であり続けた。その半生をつづった自伝でマリーヌは随所で父ジャン・マリを意識した発言をしている。

 末娘として育ったマリーヌは父ルペンに比べると、鷹揚で剽軽なところがある。自分でもその自伝で述懐しているが、「少し間抜けなお馬鹿さん」のイメージで自分がみられていると劣等感を吐露している。

 それは読書家であった父親に対して彼女は本をあまり読まなかった。昔ながらの教養教育を受けた父親は原稿なしで、即興で何時間でも語り、その講演会はいやおうなく盛り上がったが、娘はそのようなタイプではなかった。

 学生時代の仲間内の評判では、マリーヌはお祭り好きの闊達で、周囲に気を遣う女性であったようだ。それは先天的なものでもあり、意識的なものでもあった。ルペンという名前を背負った家族の宿命であるともいえた。

 ただ筆者の感想としては、90年代、次第にメディアに出演し始めた頃のマリーヌは父親のコピーだった。若いだけに言葉遣いにも余裕がなく、存在感と押しの強さを印象付けたが、その分粗野で暴力的な風貌のイメージであった。

 マリーヌは写真家か、刑事になりたかったという。しかしその名前が普通の職業に就くことを困難にした。

 結果的に父同様に弁護士を目指し、パリ大学法学部に入学、法学部学生組合の代表になることでリーダーとしての頭角を表していった。右翼の運動「西欧(Occident)」の活動家たちとは親しかったが、彼らのファシストとしての発想や行動とは一線を画していた。

 「FN青年支部」は 1991年学生生活協同組合(CROUS)の選挙に彼女を代表として送った。しかしマリーヌ自身は政治活動に関わることに当時あまり関心はなかった。むしろ「弁護士」の肩書をもつことで「ルペン」家の宿命と呪縛から逃れたいというのが本心であったようだ。

 しかし「ルペン家」の人間として周囲の先入観に満ちたまなざしや不愉快な扱いから逃れることはできなかった。カフェで遠巻きに人々が座ることにも慣れねばならなかった。パリ大審裁判所第12分室で研修生となり、未成年者対象の検察官の任務に就いたこともあったが、結果的に彼女は自分の運命に立ち向かっていく道を選んだ。


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