2025年4月22日(火)

プーチンのロシア

2025年2月8日

ロシアの介入で抗議を鎮圧

 さすがに、ルカシェンコ候補が8割得票という発表は、当時の空気感とかけ離れたものであり、従順で知られるベラルーシの市民たちも選挙不正に抗議して立ち上がった。しかし、ルカシェンコ体制側は、治安部隊を投入してそれを容赦なく弾圧。デモ参加者はもちろん、何もしていない通行人までが殴打・逮捕される光景を目の当たりにして、市民たちはいよいよルカシェンコ体制の何たるかを悟ることとなる。事ここに至って、国民にとってルカシェンコ氏はもはや合法的な大統領ではなく、単に暴力を駆使して最高権力者の地位にしがみついているだけの存在になったわけである。

 選挙終了からしばらくは、土日ごとに首都ミンスクで10万人超、各州の州都でも数千人から1万人規模の抗議行動が繰り返された。大都市住民や若者だけでなく、どちらかと言えばルカシェンコ経済路線の受益者であるはずの国営大企業の労働者たちまでもが反ルカシェンコを掲げ、ストを決行した。

 しかし、市民の勢いに押され、一時は崩壊目前かと思われたルカシェンコは、態勢を立て直して巻き返しに転じる。徹底的な暴力により、抗議運動は次第に無力化されていった。

 そして、もう一つ、ルカシェンコ体制の切り札となったのが、長兄ロシアのテコ入れであった。同盟関係にありながら、選挙前には隙間風が目立ったが、選挙後にプーチン政権は早々とベラルーシ大統領選の結果を承認し、ルカシェンコの要請に応じて治安部隊を国境に集結させた。

 この措置は、ベラルーシの民主派に「一線を超えたらロシアの部隊が出てくる」という恐怖心を与え、暴力的な政権奪取を思い止まらせる効果があったと考えられる。9月14日にはルカシェンコがロシアを訪問し、南部ソチでプーチン大統領との首脳会談が開催された。この席でプーチンは、ルカシェンコをベラルーシの合法的な大統領と認め、ベラルーシに15億ドルの融資を提供することを約束した。

 20年のベラルーシでは、一時は「チャウシェスク・シナリオ」が現実味を帯びた。つまり、89年のルーマニアで、市民の自然発生的な暴動が発生し、独裁者チャウシェスク氏の殺害で共産党体制に終止符が打たれたのと同じ状況の再現があるかと思われた。

 しかし、ルカシェンコ体制では治安部隊の造反などは起きず、当局は開き直ったかのように徹底的に暴力を行使し、非暴力の市民では太刀打ちできなかった。しかも、ベラルーシの場合には、よしんばルカシェンコ体制を倒しても、ラスボスたるロシアの武力介入を退けなければならないわけで、二重の難しさがあった。かくして、20年のベラルーシ民主化運動は、一頓挫したのだった。

弾圧のベルトコンベア

 それからのベラルーシは、実におぞましいものだった。ベラルーシ国内にはもう、野党およびその活動家、独立系のメディアなどは一切残っていない。彼らは軒並み出国するか、投獄されてしまった。

 体制に表立って異を唱えるのはもちろん、当局の意に沿わないSNSの投稿に「いいね」を付けただけで逮捕される現実がある。「弾圧のベルトコンベア」と称されるほど、徹底し体系的な市民抑圧が行われ、良心の囚人が量産されている。「ビャスナ」という人権擁護団体の集計によれば、20年以降、3697人の政治犯が投獄され、いまだ釈放されず獄中にいる者は1254人に上るという。

 変化を願う国民の期待を一身に受け、20年大統領選で台風の目になったチハノフスカヤ氏も、当局からの脅迫に耐え兼ね、選挙翌々日の8月11日には早くも隣国リトアニアへの出国を余儀なくされた。以降、彼女は欧州を舞台に活動し、22年8月には「合同移行内閣」という一種の亡命政府の樹立を宣言している。

 しかし、20年には求心力を発揮したチハノフスカヤながら、その後は民主派の各勢力から、「居心地の良い外国で演説をするだけ」、「現状からの脱却には力に訴えるしかないのに、彼女は決然たる行動に出ない」といった批判が寄せられている。思うに、もしも民主化の現実的な展望が目の前に開けていたら、民主派は大同団結するのではないか。現実には、彼らは路線対立で仲間割れしているわけで、それだけ状況が絶望的であることを物語っている。

 前出の団体「ビャスナ」を主宰し、長年にわたりベラルーシで人権擁護活動に従事してきたアレシ・ビャリャツキ氏が、22年9月にノーベル平和賞を受賞した。しかし、受賞時点で同氏はすでに収監されており、12月の授賞式には代理人が出席した。そして、国際社会の良識をあざ笑うかのように、ルカシェンコ体制の裁判所は23年3月、ビャリャツキに10年の懲役刑を言い渡している。

 一般的に、ノーベル賞というのは、何かを成し遂げた功績に対して授与されるものだろう。ただ、筆者はビャリャツキ氏がベラルーシの人権状況を実際に改善できたとは認識していない。むしろ、人権活動家の命懸けの努力をもってしても悪化する一方なのがベラルーシの国内情勢であり、そんな絶望的な状況の中で奮闘を続けてきたことに称賛とエールを送るという意味合いのノーベル平和賞授与であったと言えよう。


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