「初めて出た大会が2006年の九州パラリンピックで、100mと200mに出場したらどちらも大会新記録だったんです。記録自体はぜんぜんたいしたことないんですよ。参加者は2人だったので。同じ年のジャパンパラリンピックや障害者国体(全国障害者スポーツ大会)の茨城県代表でも出ました。まぁ勝ったり負けたりという感じでした」
その当時は理学療法の勉強に必死に取り組んでいたため、陸上競技への特別な思い入れはなかった。病院実習では視力の説明をしなければならず、自身の視力に関して深く考え始めたのもその頃からだった。
仕事漬けの2年間 陸上への「飢餓感」
卒業と同時に理学療法士として地元の病院に勤め始めた。
「入院患者さんの場合は手術直後なので歩行訓練や階段の昇り降りなど、家の中で日常生活が送れるように指導をします。はじめは動けなかったような方たちが、普通の生活に戻っていくわけですから、やりがいは感じていましたし、お礼を言われると嬉しかったです」
「その反面プロなので責任が伴いました。入院患者さんの場合は大きな手術をしたあとなので点滴をつけていたり、酸素マスクをしていますので、その管理もしなければならず緊張感がありました。視力が弱いですからね、素早い判断ができなかったりする場合があるんです。だから事前準備をしっかりやっておくのですが、それでも危険なことがあるんです。病院勤務の2年間は仕事漬けの毎日でした……」
充実感の反面、勤務中は常に極度の緊張感と不安を抱えていた。それと同時に小西にはこの2年間で何よりも、もう1度陸上競技をやりたいという飢餓感のような思いが溜まっていたのである。それに加え「鍼灸マッサージ士なら将来的な補償にもなるだろう」という考えもあって筑波技術大の鍼灸学専攻に再入学を果たした。
理学療法士としての充実感よりもスポーツへの思いが強かったの? という問いに
「う~ん、若いからですかね、競技者としての人生をもう少しやらなければいけなかったという思いがあったんですよ」と笑ったが、小西にとってこの2年間は時間が止まっていたと感じていた。離れてみてはじめて陸上競技への思いを知ったのである。