2025年3月22日(土)

チャイナ・ウォッチャーの視点

2025年3月18日

ドゥテルテの政治家としての歩み

 ドゥテルテは1945年、法律家の父を持つ家庭に生まれ、幼いころに現地盤のダバオに移住した。破天荒なスタイルから庶民生まれのイメージがあるが、父は成功した法律家で、後にフェルディナンド・マルコス(現大統領の父)政権で内務相もつとめた。

 たが、ドゥテルテ本人は殺人未遂を繰り返す暴力的な青春時代を送った後、大学院を出てからダバオ市検察官となる。その後、88年にダバオ市長に当選し、途中で多選禁止規定回避のため下院議員や副市長を務めた数年間も含め、四半世紀近くダバオの実力者として同地を支配した。

 彼の市長時代、ダバオは治安や社会秩序を劇的に回復したが、それは先述のように正規の治安活動だけでなく、彼の支配下にあった警察や自警団による、超法規的殺人を含む非合法活動によって支えられていた。こうした行動は、2016年6月の大統領当選後に全国規模へと拡大した。さらにドゥテルテは、彼の人権無視を批判した米国などの諸外国や国連人権高等弁務官事務所と摩擦を強め、また今回の逮捕劇の端緒となるICCの予備調査にも反発して、19年にはICCを脱退する。

 だが手法はどうであれ、治安や社会秩序の回復といった実績自体は国民から大きく評価され、20年9月の支持率は9割以上となるなど、高い人気を誇った。しかしフィリピン憲法は大統領任期を1期6年に制限しており、再出馬は不可能であった。このためダバオ市長時代の多選禁止回避で用いたように、娘のサラを出馬・当選させ、自らは副大統領となる構想を持ったが、国内から幅広い反発が巻き起こった。

マルコス派との協力と対立

 一方で22年大統領選挙には、復権を目論むマルコス一族から、故元大統領の長男フェルディナンド・ジュニア(通称ボンボン)が出馬を目指していた。言うまでもなく彼は、フィリピン最高のエスタブリッシュメント出身ゆえに、支配層には厚い人脈を誇る。

 一方、大衆民主主義の典型である同国では、国民大衆からの人気が高いとは言い難かった。そこでマルコス派はドゥテルテ派と取引し、22年大統領選挙ではボンボンへの支持とサラの副大統領出馬をセットにし、次期大統領選挙でのサラ出馬を支持する密約を結んだとされる。

 だが大統領就任後、権力掌握によって禅譲を拒否しはじめたマルコス派に対し、ドゥテルテ派は反発を強めて政争が勃発し、対立が激化していった。この渦中の24年11月、サラは自身が殺害された時には、既に雇った暗殺者に対し、必ず大統領と妻、大統領のいとこで下院議長のロムアルデスを殺害して報復するよう命じたとする、父親譲りの過激な発言をした。

 これに対してマルコス派は警察による捜査だけでなく、今年2月には下院での弾劾訴追案を成立させた。ただし巧妙なボンボンは、表面的には弾劾に賛成しないとして、自らに非難が向くことを避けようとしている。

 こうした政争激化の中で、今回のドゥテルテ逮捕劇は発生した。すなわちマルコス政権にとっては、ドゥテルテ派を追い込みつつあるにしても、最後にして最大のリスクが、今でもカリスマ的人気を持つドゥテルテ本人であり、これをICCの逮捕状発行という好機を利用することで、事実上の国外追放にしたと言える。

 オランダに護送される機内で、ドゥテルテは「すべての責任を負う」「私は国に奉仕しつづける」「これが私の運命」などと、淡々と語っている。


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