ロシア侵攻後から見えたウクライナ人の〝覚悟〟
-ウクライナ戦争中の任務遂行で何が最も困難だったか。
東京大学教養学部、米国防省語学専門学校ロシア語学部を卒業し、外務省入省。駐露大使館参事官、ロシア課長、香港総領事、パキスタン大使などを経て、2021年10月から24年9月に駐ウクライナ大使を務めた。
「戦時中という厳しい状況の中でキーウに残って任務を継続した大使館員、現地スタッフ、東京の同僚との連携が課題だったが、良好な状況ができた。主要7カ国(G7)各国の間で戦争に対する認識が異なり、議長国の23年は各国の団結を図るのが大変だった。
『今日のウクライナは明日の東アジア』との思いで議論をリードでき、日本も頑張っていると各国に理解してもらえたと思う」
―忘れられないことは。
「23年、G7広島サミット議長だった岸田前首相のキーウ訪問だ。1月に大統領府長官から内密の招請があった。安全上の配慮などから極秘に準備を進める必要があり、日程、警備体制、特別列車の手配など、すべてひとりでせざるをえなかった。
3月21日、キーウ中央駅で首相を出迎えたが、〝大使、まことにご苦労様です〟と声をかけてもらった。特別列車が出発したポ―ランド側のプシェミシェル駅で、予想していた日本のテレビ局2社が事前にカメラをセットし、撮影したと報告を受けていた」
――最近出版した著作『ウクライナ戦争と外交』の前半では、ロシアの侵攻は始まった直後の状況が描かれ、緊迫感が伝わってくる。詳細な記録をとっていたのか。
「戦時下で誰と会ってどんな話をしたのか、毎晩就寝前に、備忘録、業務日誌をつけていた。キーウに赴任した時から、戦争が近いと判断して、記録の残すことは使命だと考えた」
――ウクライナの軍、民が健闘している。プーチンは2、3日で片が付くと高をくくっていたとも伝えられるが。
「ここで立ち上がって戦わなければ自らの存亡の危機になると、多くのウクライナ国民が理解して団結した。キーウを一時離れてポーランドで臨時に執務した際、経由したモルドバの国境で、多くのウクライナ人家族が国外に退避していた。
男性のほとんどが妻子を車でそこまで送り、抱擁して別れて一人で国内に戻っていった。戦うのか、一人で留守を預かるのか、意志の強さを感じさせられて感動的だった。
侵攻が始まった日の朝、キーウ市内ではバスが通常通り運航され、顔見知りの女性がいつもとかわらぬ様子で犬を散歩させていた。国民は平静を保っていた」

