太平洋戦争では、日本の中規模以上のほとんどの都市が空襲された。東京の空襲は100回以上に及ぶ。現代、その街の日常に、戦争を思い出させるものは、ほとんどないと思っていた。だが、東京都内だけでも200本以上の戦災樹木が残っている。
海外からの観光客で賑わう上野恩賜公園にも、全容の把握が難しいほど多数の戦災樹木がある。それだけ多くの爆弾が降り注いだ。1945(昭和20)年3月9日から10日の未明にかけての下町大空襲では、一夜で約10万人が落命し、死体の山となった。同公園でも西郷隆盛像の付近が臨時の火葬場となり、仮埋葬が行われた。
日本の都市、そして日本人ゆえに
菅野氏らは、3月10日の攻撃目標地である深川区(現・江東区)、本所区(墨田区)、浅草区(台東区)の3区から本格的な調査を開始。戦災樹木には「焼け焦げ」「空洞」「傾き」という大きく3つの特徴があることが分かった。
さらに23区全域を対象に、3月の大空襲に加え、4月、5月と続いた計5回の空襲の焼失区域で、戦災樹木らしい特徴を有した計474本を調査。雷などではなく、戦災による損傷と裏付けられた約200本を「戦災樹木」と確認。証言・記録による裏付けがとれないものの、その可能性が高い約150本を「推定戦災樹木」とした。
これら計350本の約7割は社寺地にあった。樹種はイチョウ、スダジイ、クスノキが多い。特にイチョウは耐火性が高いことから街路樹に多用されるため、戦災樹木の中でも最も多い。調査はさらに全国に拡大し、都内以外でも180本余りの戦災樹木が見つかっている。
「戦災樹木がここまで多いのは、日本だけです。ドイツにもドレスデン爆撃(1945年2月)で損傷したとされる木が伝わるなど、他国にも戦争遺産として扱われる木はありますが、その数は限られます。その理由として、日本には木造家屋を焼き払うことを目的に、燃焼力に特化した爆弾が落とされたことが挙げられます」
「そして今なお残っているのは、日本人の樹木に対する感覚、自然観の表れも関係しているのではないでしょうか。戦災樹木の大半は神社仏閣にあります。昔からご神木として畏れられてきた木は、たとえ無残な姿でも伐採されずに残された。その象徴とも言えるのが、枯死したまま道路のど真ん中に堂々と立つ『楠木大神』です。大阪市中央区谷町にあるこのクスノキは1945年3月13日から翌日未明にかけて大阪空襲(第一次空襲)で被災しましたが、戦後の道路拡張工事でも撤去されずに残っています」
戦災樹木をめぐる現状
一方で、その痕跡が見られない戦災樹木もある。例えば、千代田区の神田明神にも複数の戦災イチョウがあるが「焦げ跡が丁寧に削り取られ、樹脂が塗布された木もありました」と菅野氏。「敗戦を思い起こさせないように隠したい、あるいは、戦後復興のシンボルとして力強い姿を見せたいという当時の人々の思いゆえではないでしょうか」と推察する。
