自分の障害を自覚、「社会」を経験
「自分以外の障害者と会ったことがなかったので自覚はなかったのですが、弱視の選手のなかでも僕は見えていない方だと気づいたんです。大学に入って自分が視覚障害者だったのだと改めて感じました」
「このサークルは筑波技術大の学生やOBだけじゃなく、関東各地から選手が集まってきていました。幅広い年齢の方がいて、いろいろな大学の学生がいて、社会人がいます。またブラインドサッカーは健常者のサポートがなければ練習も試合もできないので、健常者とも触れ合うことが多く僕は大学にいながら社会というものを学ぶことができたと思っています」
また、この時期の川村はコートで汗を流す傍ら、東洋医学について深く学んでいった。そのためパソコンや資料に向かう時間が長くなり、視力が0.01くらいにまで下がってしまった。
「高校までの勉強は好きじゃなかったんですけど、大学に入ってからは専門の東洋医学について積極的に勉強しました。実技に関しては絶対に負けたくなかったんです。将来は自分で開業してお世話になった人たちに恩返しをしたいと思っています。僕は先生や親、友達、周りの人に恵まれ、支えられてここまできましたから、それに応えようと必死に勉強をしてきました」
恐怖心から一度コートを離れる
川村は入学した年の夏に衝撃的なシーンを目の当たりにした。
弱視クラスでフットサルをしていた隣のコートで、アイマスクを付けた一人の選手がドリブルで相手をかわし強烈なシュートを放った。それが本稿冒頭で紹介した田村友一選手との出会いである。
これを機に日本代表に憧れたもののすぐに壁が訪れた。アイマスクを付けた恐怖から一度コートを離れている。
「僕の身体には衝撃がよくないんです。その恐怖心との戦いでもありました。それなりの覚悟で始めましたが2009年の夏に一度辞めているんです。やるからには本気でやりたい、でも衝撃に対する恐怖心も強い。好きなサッカーだからこそ曖昧な気持ちではやりたくなかった。本気でやって、怪我するなら仕方がない。でも、中途半端な気持ちで怪我したのでは後悔する。そう思って辞めたんです」