山形、埼玉、福岡
国保発祥の地を示す3つの石碑
中でも、国民皆保険の根幹をなすのが国保であり、職を失った後も加入できる点で「最後のセーフティーネット」と称されている。しかし、その発祥を示す史跡が山形県戸沢村、埼玉県越谷市、福岡県福津市に3つも存在することはあまり知られていない。
では、なぜ3つも存在するのだろうか。ここで時計の針を90年ほど前に戻す。1929年に起きた世界恐慌は東北を中心とした農村に大打撃を与え、農家の破産や娘の身売りなどが続出した。これは36年の「二・二六事件」など軍部のクーデターの遠因となり、危機感を抱いた内務省(現在の厚生労働省、総務省など)が国保の検討を始めた。
しかし、内務省の提案は当初、世の中に受け入れられなかった。健康保険法の源流はドイツであり、この仕組みを参考にできたものの、国保の先例はどこにもなかったため、「うまくいくのか」という懐疑的な意見が多く寄せられたのである。
そこで、内務省は「鵜の目鷹の目」で地域の同様の事例を探すことにした。国保に類似した地域の支え合いの事例を示すことができれば、懐疑的な意見を一掃できると判断したためである。
まず、内務省が注目したのが福岡県宗像地方の「定礼」という事例だった。ここでは農民がカネやコメを出し合って医師を誘致する自然発生的な取り組みが古くから続いており、同地を調査した内務省は国保創設に向けて自信を深めた。宗像地方の福津市に石碑が建っているのは、こうした理由である。
さらに、内務省の官僚を喜ばせたのが越谷市の事例である。当時、越ヶ谷町と呼ばれた同地では、富豪などの有力者が音頭を取る形で、住民が医療費を出し合う取り組みを始めようとしていた。
この事例に勇気づけられた内務省は越ヶ谷町をモデル地区のように位置づけ、様々な情報を提供したり、当時としては珍しく幹部が足を運んで相互の助け合いの必要性を説明したりした。国保の設立にカネを出し渋る大蔵省(現・財務省)の理解を得るため、同省事務次官に同地を視察してもらう一幕もあった。こうして越谷市は国保発祥の地に位置付けられることになった。
最後の山形県戸沢村(旧・角川村)でも、農民がカネやコメを出し合って医師を誘致する取り組みが昭和初期から始まっており、国保が38年に本格始動する際、当地の組合が最初に指定された。つまり、3つとも「国保発祥地」と呼べる歴史を有しており、しかも「自然発生的な助け合い」という点で共通している。
