朝5時半に起きて電車にゆられ、家に帰りつくのは夜の11時を回るという毎日だった。時に12時を過ぎてしまうこともあったほどだ。勉強にも熱心に取り組む宇野は、車内の4時間を有効に活用した。
「当時はよう頑張っていましたね(笑)。毎日生きるのが精一杯という感じで、本当に必死でした」と振り返るが、そんな生活でも宇野は1年生からリザーブとして公式戦に出場していた。
2年時には県予選の決勝で伏見工業に敗れ、3年時にはキャプテンとして県予選を勝ち上がり全国大会に出場した。
そして京都成章高校始まって以来の準決勝へと駒を進め、奈良県代表の御所(ごせ)工業・実業高校に僅差で敗れた。目標は日本一になることだったが、あと一歩のところまで詰め寄ることができた。ちなみにこの大会の2回戦で大阪代表を破っていることを記しておかなければならない。
この全国大会での活躍が評価され高校日本代表候補にも選ばれた。
「治るような怪我じゃない」
高校卒業後は中央大学へ進学した。
運動部なので厳しい寮生活のはずだが、片道2時間掛けて通った高校時代に比べればとても楽しく感じられた。
試合には1年生の頃から出場していた。正規のポジションはセンターだが最初はリザーブとして怪我で抜けた選手の穴を埋めるようにフルバックやスタンドオフなどをこなしていた。2年ではセンターに定着したかと思うと3年ではスタンドオフを任された。ラグビーでは司令塔と呼ばれるポジションでゲームを組み立てる役割である。
そして秋の公式戦を迎えた。場所は熊谷ラグビー場。対戦相手は強豪の東海大学である。
魔は後半1分に訪れた。献身的なプレーで攻撃の起点になった直後のことだった。