両親は入院当初から「良くて車椅子生活、悪くて寝たきりになる」と医師から聞かされていたはずだが、宇野の耳元で「おまえは絶対に歩けるようになる」と励ました。
「友達がお見舞いに来てくれるんですが、僕になんて声を掛ければいいのか言葉が見つからないんです。目が合って泣き出すヤツもいました。みんな心配してくれてるんだと思いました。僕もずいぶん泣きましたが、一般病棟に移った時、隣に柔道で頸髄損傷した中学生が入院していたんです。こんなに重症の子が前向きに生きているんだから、大学生の俺だって頑張らないとあかん、みたいな感じで気持ちが前向きになっていきました」
しかし、入院から1カ月半後、埼玉医大から国立障害者リハビリテーションセンターに転院し、最初に告げられた言葉に心は打ちひしがれた。
「まだ足も動かないし、座っていても不安定で、何かにもたれていないとじっとしていられなかった頃です。そんなほとんど動けない状態でリハビリ病院に転院して、最初に医師から告げられたことは『残された機能を最大限に活用して社会復帰を目指します』というものでした。その瞬間、今の自分に残されたところってどこだろう、この左手を曲げることだけじゃないかと思ったんです。さらに『今後、宇野君の足が動き出す可能性は限りなくゼロに近いし、歩けるようになる事は無い』とも断言されました」
「最悪そうなるかもしれないとは感じてたんですが、それを直接医師から言われるのはダメージが大き過ぎて、心が完全に折れました」
宇野はその場で泣き崩れそうになったが、なんとか耐えた。事故後、何度も心が折れ掛かったが、この日ほど大きな喪失感を覚えたことはなかった。
それでも両親は諦めなかった。「絶対にお前の足は動く」「絶対に歩けるようになる」と毎日のように励ましながら宇野の足をマッサージした。来る日も来る日も病院に通い、「必ず歩けるようになる」と願いを込め、祈りを込めて息子の足をマッサージし続けた。
一瞬動いた左足親指
ある日のこと、マッサージが終わりいつものように「動かしてみろ」と言われた直後に、左足の親指だけがピクリと一瞬だけ動いた。事故後、初めて自分の意志で動かせた瞬間だった。
「動くなんて簡単に言うなよ」とか「いいよ、俺の脚はもう動かんから」と不貞腐れたように返していた宇野も、動いた指先の感触に衝撃を受けた。
宇野に見えないところで両親は泣いていたはずだ。けれども「おまえは絶対に歩けるようになる」と信じて、鼓舞し続けた両親の願いが希望に変わった瞬間でもあっただろう。