「『戻ってきた!』と思いました。前の日までぜんぜん動かなかったのに、本当に嬉しくてみんなで泣きました。そこからは早かったんです。動く足の親指だけを毎日動かしているうちに、指が全部動くようになってきて、 力を入れてぎゅっとできるようになったんです。左足だけなんですが、足首を上下したり、足首を回せるようにもなりました。そこまでに1カ月間くらい掛かったと思います」
戻る可能性は0ではなかった。それが「やれば出来る」という信念に変わった。
そんな宇野の進歩は、痙性(けいせい)と呼ばれる麻痺に伴う副作用の筋硬直が起きた時に、両ひざが曲がる力を利用して、寝返りを打つことを覚えた。
本来は予期せぬ時に起こる痙性も、宇野は工夫し動きたい時に自分の意志で出せるようになって利用した。
「残された機能を最大限に活用して社会復帰を目指す」、また、「足が動き出す可能性は限りなくゼロに近い」とまで言われた絶望感は、すでに希望へと変わっていた。
社会人として歩み始める
その後、国立障害者リハビリテーションセンターから初台リハビリテーション病院へ転院し、時間を掛けて機能を回復するトレーニングを続け、半年後にはゆっくり壁伝いに歩けるようになった。
「壁を使って立ててもその感覚が弱いんです。膝がかくんと抜けて倒れることもありますし、体幹も弱いのでバランスが悪いんです。歩く時は足下を見ていないと感覚がないので危なくて歩けません。ですが壁伝いにでも歩けるようになると世界が違ってきます」
その後宇野は中央大学に復学し、同時に就活を始めた。
退院したばかりの頃はボタンひとつ掛けるにも時間を費やし、Yシャツの襟がまくれたまま直せなかったり、スーツの袖が上手く通らなかったりして「もういいわ、このまま行こう」と出掛けた日もあった。
何をするにも以前の何倍もの時間が掛かり、精神的な負担も大きかったが、それでも母親の手を借りず、全て自分ひとりで出来るようになりたいと工夫して、少しずつ効率の良いやり方を身に着けていった。
そんな生活が始まった当初は母親と二人で暮らしていたが、このままじゃダメになると宇野は決断した。