「自分の物語」を作る人は折れにくい
闘病を「ただ耐える時間」とみなすと、日々は灰色になる。
「今日も点滴、明日も点滴、その次も点滴」――これでは誰だって嫌になる。
そこで私は、勝手に連載を始めた。
題して「山師のガンファイター」。
レアメタル行脚で世界116カ国を歩いた放浪人生の続編として、「今度は病院というジャングルで生き残りゲーム」という設定にしたのである。
病院食にちょっとした工夫があれば「本日のシェフ特製」とメモし、廊下を2000歩歩けたら「本日のサバイバル距離クリア」と書き込む。孫からスタンプが届けば「応援団からの差し入れ」として記録する。物語にしてしまえば、孤独な入院生活も、少しは読み応えのある一章になる。
「過去の経験」を年のせいにするか、武器にするか
高齢の患者ほど、「もう年だから」と口にしがちである。
しかし私は、こう考える。
「年を取っている=人生経験という“防具”をたくさん持っている」
私の場合、シベリアの鉱山から中国の奥地、ブラジルの山奥まで、さんざん危ない橋を渡ってきた。戦車は来なかったが、銃声くらいは聞いたことがある。そんな経験に比べたら、病院のベッドは平和そのもの……と、少々強引にでも思ってみる。
すると不思議なもので、「まあ、この程度なら乗り切れるだろう」と腹が据わってくる。
過去の苦労話を「老害トーク」にするか、「心の資本」にするか。分かれ道は、ほんのわずかなユーモアである。
「寿命」にこだわるか、「今日」にこだわるか
私は、自分の寿命を意味もなく延ばしたいとは考えない。あと5年生きるか、10年か、20年か――それはもう、宿命の領域である。
大事なのは、「今をどれだけ有意義に生きるか」だと達観している。
この感覚を、最近、隣人のI氏が見事に代弁してくれた。
