隣人I氏の「今を生きる」流儀
私の自宅の隣には、84歳のI氏が住んでいる。田舎の高校を出て、東京でゼロから建築会社を立ち上げた叩き上げの大社長である。豪邸の庭は、私の智探庵とは桁違いだが、日向ぼっこの気持ちよさは同じである。
I氏もまた、ここ5年ほどはがん治療を続けてきた。治療と旅行を両立させ、楽しそうに日本中を飛び回っていたが、最近になって「もう治療はやめて、自然に任せる」と静かに決めたという。
先日、その庭で一緒にお茶を飲んでいると、彼が笑いながらこう言った。
「中村さん、余命が何年かなんて話より、今日のお茶がうまいかどうかの方が、よっぽど重大問題ですわ」
私は吹き出した。たしかに、医師の説明よりも、今目の前の煎茶の香りのほうがリアルである。
さらにI氏は続けた。
「5年生きても10年生きても、どうせ最後は“今日”で終わるんですからな。だったら毎日の“今日”をちゃんと生きておけば、それで合格ですよ」
これには参った。
医学書よりも説得力があり、説教臭さもゼロ。ユーモアのある達観とは、こういうものだろう。
結論――孤独は、笑い飛ばしてもよい相手である
がん闘病において、人が孤独に負けるか、孤独を味方にするか。その差は、完治の有無でも、年齢でもない。孤独を「ただの暗闇」にするのか、それとも「ちょっと怖くて、でもときどき笑える相棒」にしてしまうのか。
孤独を受け入れ、痛みとやんわり対話し、人との絆を能動的につなぎ直し、自分の物語を書き続け、過去の経験を資本に変え、小さな希望を複線で持ち、寿命よりも「今日のお茶の味」にこだわる――。
このくらい図々しく、少し笑いながら生きていれば、がん闘病もそう捨てたものではない。
人は孤独に負けて死ぬのではない。
孤独を抱きしめ、ときどき茶化しながら、もう一度“人生を取り戻す”ことができるのである。
中村繁夫
