なぜ上層部は無能なのか
さて、よく戦時中の話として、「無策な軍部・上層部が無謀な作戦を立て、現場に苦労が押し続けられた」ということがいわれる。これはまさにその通りであり、この作品を見てもその様子が分かりやすく描かれている。実はこれこそ、上述したような日本人のメンタリティから来ているものだ。集団主義といわれる日本人は実はそうでなく、「集団で動くとなると非常に苦手」なのが真実だ。
個人主義であるがゆえ、他人に対して責任を取りたくない。「責任を取りたくない」からこそ、自分に責任のない「決められたルール」「上の決めたこと」には従う。日本人がお上の言うことに従うのはこうした理由だ。
自分で意見したり意思決定すると、自ら責任を取る必要があるが、外部に理由を求めればいつまでも、従っただけの被害者でいられるわけだ。要するに、従っていれば楽だから従うのだ。
だからこそ、自ら責任を取って「本当に正しいこと」を実行しようというリーダーがいない。これを言ったらマズいんでないか…? という「空気」を優先し、全体の慣性モーメントに従ってしまう。頭では、どこかおかしいのではと思っていても。
なお、こうした日本人のメンタリティについて興味のある方に、更に一つ付け加えたい。自らの主張や意見がなく、外部に理由を求めるこの気質については、『日本辺境論』(内田樹、新潮新書)でより深く語られている。歴史上、近世まで常に中国が覇権国家として近くにあり、そちらを見上げていた成り立ちから、そもそも日本人にはアイデンティティが乏しく、「どこかにある正しいもの」にすがって生きている、ということを説いているのだ。
もっとも、だからこそ日本人はまっさらで、外部からの情報の吸収力・学習力が高いことも語られている。明治維新後の追いつき、二次大戦後の大復活、などは最たる例だろう。興味のある方にはぜひご一読いただきたい。
閑話休題。このようにして、日本人を動かすにはエクスキュースがいるのだ。不動産の例では、エクスキュースの効く「ルールだから」「契約書がこうだから」というもので、それを盾にして融通の効かない家主の例を挙げた。逆にだからこそ、日本人を動かすには別のエクスキュースを用意してあげることが必要、エクスキュースさえ用意すれば日本人は動きやすい、といえるだろう(最も分かりやすいのは「上がこう言ってます」ということだが)。コロナ禍の対策において、大衆は好き勝手に文句を言ったが、いざお上から「要請」が出されると、みな暴動の一つも起こさず素直に従っていたのは記憶に新しい(さすがに2021年初夏の現在、長引きすぎて効果が薄れている状況ではある)。
ネット上で集団リンチが発生する理由
こうしたことの最高潮が、第8〜10巻のエピソードに表れている。残留日本兵が隠れ家に立て篭もり1年以上が経ち、もはや時は1946年秋を迎えていた。さすがに状況や様子を顧みて、「もう戦争は終わっているのではないか?」と主人公たちは疑い始めるが、ペリリュー島の上層部はそれを認めようとしない。
そして一悶着あった上、第70話「狂熱」において、いよいよ主人公たちは脱走し、米軍への投降を図ろうとする。ここで、一緒に戦火を潜り抜けた仲間たちが、「あいつらは脱走兵だ!」ということで、主人公たちを撃ち殺そうとするのだ。脱走兵は処刑するというのが「ルール」だからだ。
上が決めたルールをもとに、味方を罰する。「自分で正しいことを決めた主人公たち」が、この世界では悪になってしまった。このようなエクスキュースがあれば、同胞・味方を断罪して人はいくらでも残酷になれるという、それが象徴的に分かるエピソードであった。
個人主義であるがゆえに、人の決めたルールに従い責任を逃れる。自分の頭で考えず、「上のお達し」に無垢に従い、従わない下は容赦なく切り捨てる。こうした負の連鎖で、間違った方向にどんどん進み、後戻りのできないところまで加速してしまったのが太平洋戦争であり、日本型システムというわけだ。当作品では、他にも随所にそのようなエピソードが散りばめられている。
現代でも、ニュースで報道された「悪人」が、ネット上で無数からの「炎上」なる集団リンチを受けるのもまさにそれだ。メディアで「悪い」とされたエクスキュースがあるからこそ、叩く自分には非がなく、いくらでも残酷になれてしまう。用意された正義のもとでは、自分は責任を取る必要がなく、それを盾に無尽蔵に人のことをぶっ叩いてしまうという、偽りの正義感にはぜひ気をつけていきたいものだ。
