2026年1月2日(金)

Wedge REPORT

2026年1月2日

 「治」を「つくる」と解するか、「なおす」と解するかは、些細な違いのようにみえる。だが、前者の立場では、出雲大社は天つ神が象徴するヤマト王権の介入をへて創建されたと解することになり、後者の立場では、プレ出雲大社が、ヤマト王権の介入以前に大国主神に象徴される出雲在地の勢力によって早くに設けられていたと解することになる。これは、出雲大社の歴史を考えるうえで、非常に重要な違いである。

 さらに大国主神は「(治めてくれれば)私は奥まったところに隠れ控えます」と述べる。この文言は、いずれ大国主神が出雲大社に鎮座することを隠喩しているようにもとれるが、江戸時代の神道家・平田篤胤(ひらたあつたね)は、大国主神は国譲りをした後、幽冥界(死後の世界)に去って、その主宰者になったのだと解した。

大国主神の隠遁所としての出雲大社

 『古事記』では、この大国主神の言葉のあとに、「出雲国の多芸志(たぎし)の小浜に、天の御舎(あめのみあらか)」がつくられるという描写が続く。

 通説ではこの「天の御舎」を、大国主神の隠遁所として造営された出雲大社のことと解するのだが、三浦氏はここでも通説に抗し、「天の御舎」は、服属した大国主神が天つ神を饗応するために建てた「迎賓館」のことだと説いている。「多芸志」は一般に斐伊川西岸の出雲市武志町付近のこととされ、そこは出雲大社の鎮座地から南東方向に10キロほども離れているので、たしかにここに出雲大社が建てられたと解すると、矛盾が生じてしまう。

 出雲市武志町には現在、建御雷神を祀る鹿島神社がある。この神社は、明治維新前は小濱明神と称したが、出雲の地誌『雲陽誌』(1717年頃成立か)は、「多芸志の小浜」の「天の御舎」の伝承地に、この小濱明神を挙げている。往古、鹿島神社の地には、建御雷神をはじめとする天つ神を饗応する館が立っていたのであろうか。

 仮に「天の御舎」を大国主神が建てた「迎賓館」と解した場合、『古事記』神話の中では、大国主神が天つ神に要求した、隠遁所としての荘厳な出雲大社の造営が実行されたことは明記されていない、ということになる。

 一方、『日本書紀』では、国土奉献を決意した大国主神は、「私が治めている顕界(けんかい)のことはこれからは皇孫が治めてください。私は退いて幽界を治めましょう(吾が治らす顕露事は、皇孫治らしたまふべし。吾は退りて幽事を治らさむ)」と天つ神に述べてから、体に大きな玉(八坂瓊/やさかに)を掛けて、永遠に隠れてしまったことになっている(神代下・第9段一書第2)。

 記紀の記述の解釈をめぐってはいろいろと議論があり、大国主神と出雲大社の関係を完全に明瞭にすることは難しい。だが、歴史的にいつ創建されたのかという問題はさておき、記紀神話の文脈からすれば、最終的に大国主神の住まいとして提供されるはずの荘厳な宮殿が出雲大社であることを、神話が示唆していることは明らかだろう。

 出雲大社が古来、大国主神を祀ってきたことの由縁は、そこを大国主神の住まいとして語る神話にきざしているのである。

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