*この記事は、『伊勢・出雲に秘められた聖地・神社の謎』(三橋健編、古川順弘執筆、2025年12月刊行、ウェッジ)から一部を抜粋したものです。
『日本書紀』に記載が見られる創祀伝承
清流五十鈴川(いすずがわ)のほとり、古くは「宇治」と呼ばれた土地に鎮まる伊勢神宮の内宮(正称は皇大神宮)は、天照大神(あまてらすおおみかみ)を主祭神とする。この神は、『古事記』では天照大御神、『日本書紀』では天照大神と書かれ、伊勢神宮では正式には「天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ)」と呼ばれるが、ここでは原則として「天照大神」で統一する。
天照大神が、なぜ伊勢神宮に祀られることになったのか。その経緯は『古事記』には書かれておらず、『日本書紀』にのみ書かれている。そこで、『日本書紀』に記された、伊勢神宮創祀伝承の要旨を記してみよう。
〈大和国(奈良県)の磯城瑞籬宮(しきのみずがきのみや)に宮居した第10代崇神天皇は、天照大神と倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ/大和地方の土地神)を宮中にて同床共殿で祀っていたが、疫病が流行して多くの人が亡くなり、民が流亡離散して国が乱れると、これを神威によるものと恐れ、2神とともに住むことを不安に思うようになった。そこで天皇は、天照大神を皇女豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)に託し、大和の笠縫邑(かさぬいのみや/桜井市三輪の檜原神社付近か)に遷し祀らせ、そこに磯堅城(しかたき)の神籬(ひもろぎ)(*「磯堅城」は「石でつくられた堅固な区画地」の意、もしくは地名の「磯城」。「神籬」は榊などを立てて作られる祭祀施設)を立てた。倭大国魂神の方は、もうひとりの皇女渟名城入姫命(ぬなきのいりびめのみこと)にその祭祀が託された。〉(『日本書紀』崇神天皇5年条・6年条)
従来は神勅にもとづき、天皇が直接、都の宮中(皇居)にて「同床共殿」により天照大神の祭祀を行っていた。ところが、崇神天皇の時代からは、その絶大な神威への畏怖のあまり、宮外に特別の祭祀場がもうけられ、皇女が専従の巫女として仕えて天照大神の祭祀を行うようになったというのである。
