2025年12月29日(月)

橋場日月の戦国武将のマネー術

2025年12月29日

当時の「流行」浄瑠璃に乗る

 吉原細見、黄表紙と立て続けに成功した蔦重。彼が次に目を付けたのが、浄瑠璃の流派の一つ「富本節」だ。

 浄瑠璃はちょうどそのころ、大坂から多くの演者が江戸に進出し、平賀源内も新作浄瑠璃を発表して江戸でも盛り上がっていたところだった歌の流派のひとつで人気を博していた「馬面豊前(うまづらぶぜん)・馬面太夫(うまづらだゆう)」」こと二代目富本豊前太夫(とみもとぶぜんだゆう)とタイアップしての直伝正本(しょうほん、歌詞と節回しの解説本)と稽古本(歌詞のアンチョコ)出版を図る。

 そのためには浄瑠璃本の板株(出版権利)を手に入れなければならない。浄瑠璃の板株は高額だったはずだ。

 なぜかというと、式亭三馬の『浮世床』の挿絵にもあるように、江戸の町では裏長屋にも「常磐津」という浄瑠璃の一派の三味線の弾き語りを教授するお師匠さんが住んでいるほど、多くの人々が鑑賞するだけでなく熱心に習って遊ぶ対象だったからだ。趣味人口が多ければ、そのレッスンマニュアル本もたくさん売れる。売れることが分かっている以上、その板株も高くなるのが当たり前という理論である。

 堅実な蔦重のこと、なんとかその板株代を節約したいと考えたのか、彼は意外な手に出る。株を持つ出版元・丸屋の娘を妻に迎えたのだ。

 身内となれば交渉もスムーズ。彼は割安で丸屋そのものを取り込んでしまう。江戸出版業界におけるM&Aという事になる。

 富本節正本となれば1冊150文前後ほどにはなるだろうから、単価3000円ぐらいの本を長期にわたって再版を繰り返し売っていける。こんな良い商売は無い。

 こうして天明3年(1783年)、蔦重は店舗を新吉原大門口から日本橋通油町に移転し、新たに「耕書堂」の看板を掲げる。

蔦重の利益確保術

 つらつらと蔦重の企画・経営のキモについて考えてみたが、それでは果たして蔦重の収益はどんな状況だったのか。作家の曲亭馬琴は天明・寛政の時代の黄表紙全盛の様子を「蔦屋と鶴屋の二大地本問屋が出す本については冬1シーズンで2冊物・3冊物の一組がすべて1万部以上売れ、『あたり作(当たり作=ベストセラー)』は1万2000~3000部も売れた」と記している。


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