親に跡を継ぐことを求められれば子どもは引くが、親に突き放されると飛びつきたくなる。必死に父の背中を追いかける。ひとりよりふたりのほうが心強いから一緒に追いかける。
偉大な父がいつも目の前を走っていた。
「教えてもらったことを、仕事の度に、役をやる度に思い出すんです。それだけ密接な関係なら父がいなくなってぽっかり大きな穴があいた感じでしょうって言われるけど、そんなことはない。時々顔を合わせて仲よく話をした思い出が残っているという父親との関係だったら、かえって穴があいたような寂しさがあるのかもしれないけど、僕の場合逆なんです。常に一緒にいて、いろいろと学ばせてもらったから、今も父は僕の中にいっぱい詰まっている。だから穴があかない。父だったらどう思ってるんだろうなっていつも考えながらやってる。息子だし、父が大好きだし。父の魂を継承していきたいんです」
その父の魂は、七之助の中にどのように受け止められているのだろうか。
「父は……とにかく歌舞伎が好きで好きで、とっても愛している。いつも歌舞伎の心と向き合っていたと思います。だから常にこれでいいのかという危機感をもって考え、自分の芝居を磨こうとしていたように思います」
コクーン歌舞伎で学んだこと
歌舞伎の心と向き合ってきた父の魂。18代目勘三郎は、民衆の中から生まれ、民衆の心とともに成長した歌舞伎の原点を求めてさまざまな挑戦をする、まさに魂の冒険家ともいえる激しさを秘めた稀代の役者だった。
歌舞伎界を揺さぶるような挑戦の一つは、串田和美(かずよし)とタッグを組んで始めた渋谷・Bunkamuraの劇場シアターコクーンでの「コクーン歌舞伎」。串田和美といえば、吉田日出子や佐藤信(まこと)たちと自由劇場を結成。「もっと泣いてよフラッパー」や「上海バンスキング」などの大ヒット作を生み出し、60年代から70年代にかけてのアングラ、小劇場の時代を牽引していた異才の役者であり演出家である。当時まだ若かった父は、そうした劇場に足を運び、客席と一体になって演じられる芝居に本能的に歌舞伎の原点と通じる何かを感じたのだろう。
シアターコクーン開設の85年に芸術監督に就任した串田と父(当時勘九郎)との出会いから、94年にコクーン歌舞伎が誕生した。父が向き合おうとした歌舞伎の心は、現代の民衆と切り結ぶ芸能の原点だったのだろう。しかしそれは、長い苦難の歴史を経て歌舞伎を立派な芸術として昇華させてきた先達たちには、必ずしも歓迎されることではなかった。歌舞伎界に戻れなくなるかもしれないという思いを、串田に打ち明けていたという。大変な覚悟を秘めての挑戦は、コクーンで面白さを知った客が歌舞伎座に足を運び、コクーンの評判が歌舞伎座の客をコクーンに呼ぶ流れを生み、今年20年目を迎えた。