なぜ宮都が繰り返し営まれたのか
宮都は5世紀ごろから飛鳥近辺に入ったりそこを出たりというのを繰り返していた。そして592年に推古天皇が飛鳥の豊浦宮(明日香村豊浦)で即位すると、以後宮都は、一時的に難波や近江に遷ることはあったものの、持統朝の694年の藤原宮遷居まで(藤原宮・藤原京を飛鳥に含めるなら、元明朝の710年の平城京遷都まで)、継続的に飛鳥やその近辺に置かれたのである。
どうやら天皇も含めて古代の宮廷人は、飛鳥を宮都に適した土地とみていたらしく、だからこそ、ここを離れても結局は戻ってくるという流れが生じたのだろう。
なぜ、飛鳥が宮都にふさわしい土地柄ととらえられたのだろうか。蘇我氏や大伴氏、阿倍氏など、王権を支えた諸豪族が飛鳥やその周辺に拠点をかまえていたことは、その理由として当然考慮されるべきだろう。
だが、いちばんの理由は、やはり飛鳥の風土が古代人を大きく魅了したということなのではないか。現代の飛鳥は、昭和50年代から制定された法律や条例のおかげもあって、社寺や史跡と一体となったのどかな田園風景がよく保たれており、訪れた者をいつもなごませてくれる。このような景観が、植生も含めて古代のままであるとはもちろん思えない。だが、ささやかな盆地ながら、山と丘、川、野原に恵まれ、豊かな緑に包まれているという基礎的な風土は、古代も今もさしてかわらなかっただろう。
そんな大自然のミニチュアを思わせる小盆地は、古代の宮廷人の目には、彼らをやさしく包み込んでくれる「揺り籠」として映ったのであり、だからこそ彼らはこの飛鳥の地に親しみと郷愁を覚えたのではないだろうか。
そして、日本が国家としてさらなる発展をつづけることが期されたとき、彼らはその揺り籠を完全に脱しなければならなかったのである。
「飛ぶ鳥の明日香の里を置きて去(い)なば 君があたりは見えずかもあらむ」
これは『万葉集』に収められた元明天皇の歌で(巻1・78)、和銅3年(710)の藤原京から平城京への遷都の際に詠まれたものだ。「飛鳥の里をあとにしてしまったら、あなたがいるあたりも見えなくなってしまうのでしょうか」と、飛鳥の地に葬られた亡き夫(草壁皇子)や息子(文武天皇)への惜別が詠われているが、同時にここに、日本揺籃の地となった飛鳥の土地そのものへの惜別を読み取ることもできよう。
飛鳥は、すでに奈良時代において、宮廷人におのずと感傷をもよおさせる、日本の「ふるさと」となっていたのである。
