「平等」の名目の元に、子どもたちの自主性や個性・連帯・努力・友情などを削ぎ落とし、この子らを励ましつつ自尊心にも配慮をしながら応援する、なにがあっても一生面倒を見る親の気持と、地域に住み続けることから真正面から地域の子どもたちをみんなで見守り育てようとする人たちをもこん棒で殴りつけるようないやらしさを感じました。
どうして、自主的に発案してがんばってユニフォームを手に入れた子どもたちを褒めたたえ、ほかの子どもたちに「後に続こうね!」と、前向きに考えてくれなかったのでしょうか。
若い同僚を非難するのではなく、おだてて励ます先生になれなかったのでしょうか。
一部であれ、これが先生の現実、学校内の現実なのかと思うと、立場の違いはあれ、同じ大人としてとても哀しくなりました。
「平等」を重んじる学校教育
しかし、冷静に考えてみると、このことはこの先生一人の資質に帰せられるものではないことに気がつきました。
明治5年の学校教育制度の成立から長年月かけて培ってきた学校は、どの子も平等に扱う原則や、突出はご法度が常識とされる「学校システム=学校装置」からくる当然の行為だったのではないかと思い直したからです。
と、するならばその常識に囚われている先生を、だれが非難できるでしょうか。
であるからこそ、ひとり一人に個性があり喜びいさんで入学してきた子どもたちや、その人なりに夢を描いて先生になったであろう人々の集団としての学校が、本来の学び合い育ち合う小社会、換言すれば民主主義者をこそ究極の育成目的としているはずの学び舎として機能していないとすれば、それは、子どもばかりか大人すべてにとっても不幸なことではないかと思いました。
お金を稼ぐことは生きる基本
てなことから始まった、小学生の金稼ぎは、以後もいろいろと策を練り、手を変え品を変え秋津では続くのでした。
そんな金稼ぎの様子の写真が今回のものです。
私は確信します。
金稼ぎは生きる基本であり、賢い生活者になるために必要不可欠なんですし、にもかかわらず学校教育ではふつうは現金のやり取りはご法度で金稼ぎを教えてくれないんだかんね。
だったら親や地域が教えてやんないとダメじゃん!
しかも子どもたちが楽しくって乗ってくるような金稼ぎのやりかたでさ、と(次回は今も続く秋津っ子バザーのやり方なんかの話をしようかなぁ……わかんないけどね)。
では次回まで、アディオス! アミ~ゴ!
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