2人の役員(委員)はすぐにはやってくれませんでしたが、無理はいいませんでした。でも、最終的には全役員が行動してくれました。全社の常務以下の役員、部長、課長の机が小さくなり、しかも並び方が図③のようになり、一人あたりのスペースが非常にスリムになりました。空いた本社全体のスペースをまとめて計算したら、年間賃借料1億円の合理化になりました。
こう書くと、なんだか私が聖人君主のように思われるかもしれませんが、まったくそんなことはありません。いま思えば、私は、自らこういう行動を取らざるを得ないように、自然としつけられていたのです。若いころから、会社のトップの「率先垂範」の姿勢をいつも見ていました。だから、「合理化をやれという立場になったのなら、まずは自分がなにかやらないといけないな」と自然に考えたのだと思います。
できる社長は「やってみせる」
私の恩師の小田切新太郎さんは、1974年から83年まで信越化学の社長を、その後87年まで会長をされました。
小田切さんは、第1次世界オイルショックの翌年の1974年に社長になったとき、いちばんはじめに、監査役とヒラ取締役の車をなくしました。運転手さんは総務部付きになって、事務の仕事に移りました。
その後、79年の第2次世界オイルショックのときに常務の車をなくしました。さらに82年から83年にかけて、日本の石油化学産業が大不況に陥ったときに、専務の車をなくしました。そして85年の大幅な円高、原油安、半導体の大不況のなかで、とうとう自分の車もいらないと言い出されたのです。
当時、小田切社長の上(形式ではなく、実質的な上)には、特別顧問の小坂善太郎さん、最高顧問の小坂徳三郎さんという、もともとの信越化学の創業者の息子さんたちがおられました。ご存知の方も多いと思いますが、大物代議士で、このお二人は顧問だから、車がついていたのです。
そこへ社長が車はいらないと言い出したものだから、兄弟お二人は慌てて相談し、「社長だけは車をなくさないでいただきたい」と陳情に行かれたのです。社長の車がなくなると、お二人の車もなくなってしまうからです。
その伝統が残り、いまでも信越化学では社長・副社長しか車に乗っていません。私は常務を7年やりましたが、世に言う「役員の三種の神器」である、(1)車、(2)秘書、(3)個室はナシでした。それが当たり前でしたから、不満に思うこともありませんでした。
不景気が続き、政治も多くの企業も、「経費節減」を掲げています。でもそれは、われわれ、しもじもの者たちに強制的に「やらせる」のではなく、上の立場に立つ人がまずは「自分からやってみせる」ものでなければならないと思います。
はじめに申しましたが、代議士の方々は徹底的に勉強することで、尊敬を集めてほしいと思います。そのような代議士の方々に私はペコペコしたいのです。
■「WEDGE Infinity」のメルマガを受け取る(=isMedia会員登録)
週に一度、「最新記事」や「編集部のおすすめ記事」等、旬な情報をお届けいたします。