2024年11月22日(金)

それは“戦力外通告”を告げる電話だった

2015年8月27日

神宮のスター選手だった大学時代

 1998年、ドラフト1位で法政大学から入団した真木は、1年目から6勝を挙げ、新人王候補にも名を連ねるなど、将来を嘱望されていた。2年目、フォームの改造に着手すると、目に見えて球速が落ちていった。

 酷使し続けた体が悲鳴をあげたのかもしれない。高校1年時から投手を始め、3年間投げ続けた真木は、大学に進学後も、1年春から4年秋まで投げ続け、通算25勝。28勝を挙げた明治大学の川上憲伸(中日ドラゴンズ)のライバルとして君臨し、学生時代の7年間、投げ続けた。酷使の影響からか、プロ3年目には最速145キロを誇っていた球速も130キロ前後まで落ち、投手としての能力の低下は火を見るよりも明らかだった。4年目、真木はジャイアンツにトレードとなる。

 「心機一転、チャンスだと思った」

 しかし、環境が変われど、一度崩れたバランスは簡単には戻らなかった。どんな練習をしても、「全く」戻らない感覚。トレード移籍で加入した立場でありながら、一度も一軍登録さえされぬまま、4年目を終えた。

 迎えた5年目。前年の秋季キャンプから必死に練習に取り組み、自主トレ、春季キャンプとあの手この手を尽くしたが、何をやっても効果は出なかった。ほとんど登板機会もないまま、真木は戦力外通告を受けた。

 数球団のトライアウト、合同トライアウトを受けるも、声はかからない。知り合いのツテをたどり、行き着いたのはカナダの独立リーグ。真木はもう一度野球と向き合うため、海を渡った。

 「言葉も文化も何もかも違う場所で、本当の意味で野球に集中できた」

 ドラフト1位、トレード移籍、真木の肩に乗る「肩書き」は、この地では何の意味も持たない。真木は心から野球を楽しんだ。しかし同年8月、このリーグは経済難により閉鎖。帰国した真木は、翌年メジャーリーグのトライアウトを受けるために練習に励む。翌年2月、フロリダ、アリゾナの十数球団のトライアウトを受けて回るも、声はかからなかった。しかし、野球への未練はなく、清々しい気持ちで引退を決めた。野球と向き合い、野球がない日々を受け入れるには十分な時間だったと、真木は優しい目をして語った。

 04年、真木のセカンドキャリアが始まる。「野球を辞めたら、一緒に仕事をしよう」と、以前から声をかけてもらっていた先輩に連絡し、そこから丸2年程、プロ野球球団のグッズの企画制作を請け負う仕事をした。


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