2024年4月26日(金)

古希バックパッカー海外放浪記

2015年11月22日

政治的プロバガンダがかすんでしまう老人の言葉

 フェリーの船内の海が見える大風呂で汗を流して大部屋に戻り布団に寝転んで涼んでいると韓国の老人がしっかりとした日本語で話しかけてきた。驚いたことに94歳という高齢であるが頑丈そうな体格であり矍鑠とした雰囲気の老人である。

 「若い時に今の北朝鮮の鉱山のハザマ組の現場で働きました。」と達者な日本語で滑舌もしっかりと語りだした。私は老人の持っている何か独特の雰囲気に思わず居住まいを正して話を聞いた。

 「現場では夏は暑くて冬は凍えそうに寒くて大変でした。同じ故郷から一緒に数人で稼ぎに行きました。お互いに励まして頑張りました。」

 「重労働で辛い毎日でしたが両親にお金を送るために必死で頑張りました。故郷では仕事がなかったです。お金が稼げると聞いて故郷から友人も来ました。」

 老人の話を聞いて分かってきたのは太平洋戦争以前の日本統治下の現在の韓国の南部では産業もなく貧しかった。それゆえ現金収入のない農家の青年たちは現在の北朝鮮にあった鉱山などの工事現場に出稼ぎにいっていたようである。しかも故郷では得られない高待遇と高賃金であったのでお金を貯めて家族に送金できたようであった。

 老人の話しぶりから推測できたのは当時の韓国南部の一般農民の生活や労働と比較すれば、工事現場の飯場や寝床は藁葺き農家よりも“まし”で、飯場での食事、いわゆる飯場メシでも三度の食事が保証されており農家の日常の食事と比較すれば“満足できる水準”のようであった。それほど韓国民衆は貧しかったのであろう。当時は日本の東北の農村でも不作・凶作となれば餓死者がでるほどであったから韓国南部でも同様であったのだろう。

 どうも老人の体験は韓国政府が非難している強制労働とはいささか実相が異なるようだ。それにしても異郷で酷暑極寒のなか日本人の監督の下での重労働は辛いものであったに違いない。しかし老人は淡々と若き日の思い出を語り続け日本への“恨み”または“怨み”の言葉は一切なかった。

 反日も親日もない、淡々とした思い出を語る言葉は一つの時代の確かな証言だと重く受け止めた。韓国政府の公式見解ではこれも含めて“強制労働”なのだろうか。政治的プロバガンダに脚色され単純化されたスローガンが虚しく思われた。他方でこの老人とは真逆に奴隷労働同様の条件下で酷使された人々がいるとしたら、そのような恨みをもった人は決して日本人の私に気軽に声をかけることはないであろうと思った。

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⇒(第2回に続く)

  
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