干天の慈雨
最悪の場合は山中で野営する覚悟で進む。次第に山道が険しくなり上りではほとんど押し歩きとなる。なんの標識もない。5時近くになると雲が多くなり薄暗くなってきた。人家の灯りが見えないか目を凝らして押し歩きを続ける。喉がカラカラに渇いて唾も出ない。
そろそろ野営地を探そうかと思いあたりを見回していたら遠くに赤い灯が微かに見えたような気がした。数分ほど歩いてゆくとどうも車のテールランプのようである。ということは誰か人がいると思い喜び勇んで足を速めた。数人のハイカーが見えた。よく見るとその手前にトタン屋根の茶屋があった。水が飲める! 茶屋に近づくと女主人がニコニコと出迎えてくれた。
慌てて叫んだ。「ムル、チョムジュセヨ(水、ちょっと下さい)」女主人が手招きする先を凝視すると岩の間から清水が滾々と湧いていた。まさに干天の慈雨である。甘露とはこのことか。ごくごくと流し込むと清冽な甘露が五臓六腑に沁みわたり渇きを癒す。一息ついて「麒蹄から自転車で来ました。大変疲れました」というと客のハイカー達が仰天するやら感心するやら。私が白髪頭で痩せているので、そんな年寄りがなんて無茶をするのだろうという反応である。
道を尋ねると近くに見える峠を越えれば春川までは下り坂のようである。距離的には判然としないが表情から判断すると何とかなりそうである。茶屋の人々の歓呼の声援を受けて意気軒高に出発。峠を越えると街の灯が雲間に見えた。人間世界に戻れる。
春川市街を見下ろす高台に到着した。ホテルやレストランが並んでいる。見晴らしの良い場所から写真を撮る。近くの数軒のカフェテラスは若いカップルや家族連れで大賑わいである。今日は土曜日であることを思い出した。
「お代は頂いていますから」
高台から市街地に下ってきて野営地を探すがどうも適当な場所が見つからない。山中彷徨でエネルギーを消耗したので“自分へのご褒美”に夕食はコンビニ弁当をやめて食堂で旨いものを食べることに。であれば適当なレストランを探して、その店の庭か駐車場にテント設営をお願いすることにした。