父や周囲の大人が、常に次々と目標を与え、期待をし、それに応える自分がいて、そんな自分に何の疑問も感じなかった村治が、高校卒業後にパリに留学して初めて同年代の同じ音楽を学ぶ人たちと接した。
「音楽について話せる友人たちができて、続けようか止めようか悩みながら生きている人もいた。初めて止めるという選択肢があるということに気がつきました。まさに目からウロコ。ギターを始めたという意識がないから、止めるというのは私にとってはご飯を食べることを止めるというくらいありえないことだったんです」
止めることができるとなると、止めないのはなぜなのか、続けることに何か意味を見出さなければならないのかという、初めての問いが生まれてしまう。ギターと1体化していたのが、ギターと自分が初めて分離したということなのだろうか。
そんな時、あるテレビ番組が村治のパリでの暮らしぶりを取材したいと申し入れてきた。村治は自分の生活の取材より、隣国スペインにいる「アランフェス協奏曲」を作曲した巨匠ホアキン・ロドリーゴに会いに行きたいと訴えて、これを実現させている。
「ギターとの出会いも含めて、すべて受け身だった私が、初めて自分の内から希望が生まれて、自分から周囲に働きかけた出来事だったんです」
自分の意思で自分の気持ちに正直に歩き出した村治は、亡くなる半年前の98歳のロドリーゴの前で、彼自身が作曲した曲を数曲弾いた。
ロドリーゴ亡き後も、ファミリーとして受け入れてくれた彼の家族と親交が続き、後にスペインに居を構え日本と半分ずつ暮らすという生活への起点となった。
「そのころは、自意識がギタリストで、すべての時間も経験もギターにつながっていたんです。でも、ロドリーゴのご家族は、ギターのためだけでなく、ギターから離れてもっと自分の人生を楽しみなさいって言ってくれて、あ、楽しんでもいいんだと思いました」
人生に必要な両輪
ギターあっての自分から、自分あってのギターへ。日本とスペイン、ブランコのように振れることでギターを取り込む自分を大きく深く広げていく。
かつて村治は、「バランスを大事にしていきたい」と語っていた。バランスを意識したのは、高校生のころ。ギタリストとして華やかにデビューしていた自分と、普通の高校生としての自分。一方で目立っている分、学校ではなるべく普通にする。そんな周囲を意識したバランスのとり方と、いま村治が言っているバランスとは、ちょっと違うようにも思える。
スペインと日本、クラシックとポピュラー、ギタリストの自分とひとりの女性としての自分を大きく揺らしながら自由に飛べる空を広げていく。そんな演奏家としての可能性がマックスに広がった時に、長期休養を余儀なくされたわけだ。その試練を村治は、「神がくれたプレゼント」と表現した。