そのとき、たまたま日本から遣唐使船が来なければ、鑑真が日本に着くことはなかったと思う。疲れ切り、あるいは病んで、この世を去ったことだろう。どこかに書き留められることもなく、そのような人がいたことさえすっかり忘れられたに違いない。
日本に着いた鑑真は東大寺に住んだ。唐禅院という子院で、宮内庁正倉院事務所の新しい庁舎がある辺りである。やがて僧綱(そうごう)の職を止められた鑑真は、唐招提寺を建てて移った。
唐招提寺で鑑真が最初に建てたのは講堂だった。これは珍しい。普通は金堂(本堂)から建てるものだ。もちろんそれにはわけがあった。
鑑真が日本へ行くことを決意したのは、ただ伝法(仏法を伝えること)のためであり、日本を仏法興隆に縁のある国と考えていたからである。鑑真の伝記『唐大和上東征伝』は、鑑真の弟子や孫弟子による戒律の普及活動を紹介したあと、「仏の言うところのごとく、わが諸の弟子、展転してこれ(戒律)を行ずれば、すなわち如来常在して不滅となる」と記しており、戒律を伝え、戒律を実践することにより、仏法が不滅になると鑑真が信じていたことがうかがえる。
仏法を「伝える」、ただそのことに、鑑真は本当に命を賭けたのだ。
仏法を伝える場所はお寺の講堂。だから一番に講堂が必要だった。各地から集まった僧侶は、唐招提寺の講堂で鑑真について戒律を学び、実践した。僧侶の修学の場所である講堂を真っ先に建てた鑑真。「伝える」ことに本当に人生をかけた鑑真らしくて、なんだかうれしい。
金堂が建てられたのは、鑑真が天平宝字7年(763)に亡くなってからである。時期は定かでない。今回の解体修理の際に、総数約2万点の部材の中から243点を選び、年輪年代測定をおこなったところ、地垂木3点が延暦元年(781)に伐採されたものとわかった。伐採年と建立年は同じではないが、金堂は781年からそう遠くない時期に完成したと考えてよい。金堂の造営には、鑑真と一緒に日本に来た如宝が深く関わったが、それは延暦5年(786)以降のことらしい。弘仁元年(810)に塔が完成して伽藍の整備が終わるので、金堂の完成は鑑真が亡くなって20数年後くらいではなかったか。
ところで今回、全面的な解体修理が必要になったのは、柱の内倒れのためだった。柱が上部で内側に倒れているのである。これでは、大地震が来たら、もたない。内倒れは4メートルを越える深い軒の荷重を適切に処理できていないことに起因していたので、解体して天井裏に新たな構造補強材を組み込んだ。
金堂の屋根には、約1万本の丸瓦と約3万枚の平瓦が葺かれていた。解体に伴う調査で、古代の瓦は全体の1割に過ぎず、他はさまざまな時代の瓦だとわかった。金堂の屋根は、百年に一度以上の間隔で葺き直されていたのである。
屋根の上の左右の鴟尾のうち、左側が創建当時の奈良時代のもので、唐招提寺のシンボルにもなっていた。しかし表面が剥離し、亀裂も走っていることから、ふたたび屋根にあげるのは危険と判断され、鎌倉時代に作られた右側の鴟尾ともに、今回の修理で新しく造り替えられた。
2003年秋に木部の解体が終了。2004年には基壇の解体と発掘調査がおこなわれ、当初の二重基壇が発見された。発掘が終わると、いよいよ組み立てである。それも順調に進み、2008年には覆屋根を解体、ふたたび金堂の力強い姿が見られるようになった。そして今年になって盧舎那仏・千手観音・薬師如来の三尊が戻り、いよいよ落慶である。