世界を注目させた糸の名は「フウガ」。風雅に通じる命名だ。アンゴラ山羊の毛を使ったモヘア糸で、それまでは1グラムの毛を30メートルまで伸ばすのが限界とされていたのを、佐藤が率いる寒河江の職人たちは52メートルまで伸ばすことに成功した。世界の常識を超えたと評価されたメイド・イン・ヤマガタのこの糸は、南アフリカの山羊の毛が山形で糸になり、パリに渡り製品になって、アメリカで脚光を浴びたということになる。
光といえば、佐藤の金髪も相当に光り輝いている。
「目立ちたかったんです。だれも注目してくれないなら、とにかく相手に強烈な印象を与えたくて始めたんですけど、もう元に戻れなくなってますね」
いまや佐藤のトレードマークのようになっている金髪は、時代に翻弄され、国内アパレル製造の99パーセントが輸入の糸と生地になっていった日本の業界の暗い現実の中で、「ここに凄い糸があるんだ!」という必死の叫びでもあったようだ。
糸の可能性に目覚める
佐藤繊維が寒河江に誕生したのは、1932年。曾祖父が、周辺の農家が飼っていた羊の毛を原料にしてウール紡績を始め、祖父が石造りの酒蔵を買い取って工場化、父がセーターなどのニット製品を手掛けて、糸から製品までという現在の会社の原型を3代かけて築き上げてきた。4代目の佐藤が生まれたのは、66年。まだ繊維業界は頑張っていられた頃だ。
「工場のふわふわの綿にまみれて遊んでいたんですが、高校の頃からどんどん興味がなくなってしまって。東京の文化服装学院に進んだ時は、東京の会社でデザイン画を描いていたいと希望していて、山形には帰りたくないと思っていたんですけどね」
意に反して帰郷することになり、父が社長を務める佐藤繊維に就職した。その時もまだ、いつか東京に戻ろうという思いを密かに抱いていた。
「紡績も、古くて手間のかかる機械から、徹底した効率化と低コスト化を追求した大型で高速の機械を導入しなければ生きていけない時代です。必死に銀行からお金を借りて、地方の工場が最新の機械を入れても、一瞬にしてオートメ―ション化が完了する大手にはとても勝てない。うちの会社も、発注された安い糸しか作っていませんでした。それで安いニット商品を作っても、もっと安い海外に生産拠点が移っていってしまう。頼まれたものをただ作っていては、頼まれなくなったら終わり。国内で生き延びたかったら何か開発して持ってこいと言われる。周りは最新の機械を買っていたけど、うちは買えなかった。古い機械で注文を取るにはどうしたらいいのかと考えました」