兵語界説
第3回も『天剣漫録』の引用からはじめます。
「人生ノ万事虚々実々臨機応変タルヲ要ス。虚実機変ニ適当シテ始メテ其ノ事ナル」 (天剣漫録9)
秋山真之は軍学者になる気などありませんでした。
軍人としてひたすら敵に勝つ術を考えつづけた。実学の人でした。
この実学を重んずる明治の気風は福沢諭吉の『学問のすすめ』ではじまります。
「(学問は)人間普通の実学にて、人たる者は貴賎上下の区別なく皆悉くたしなむべき心得なれば、この心得ありて後に、身も独立し天下国家も独立すべきなり」
秋山真之は正岡子規とたもとを分かって、自らの実学の対象に文学でなく戦争を選びました。
ところが、この戦争というのがじつに厄介な代物です。
プロシャの用兵家クラウゼウイッツが『戦争論』で嘆いています。
「戦争は理論上はいかに単純であろうとも、実際にはきわめて複雑であり、理論は行動を指図するものではなく、現実の複雑さを解明し、その相互関係を明らかにするだけである」
クラウゼウイッツは戦争につきものの偶然を「摩擦」と呼びました。
秋山真之はこれを虚々実々と形容します。虚実に臨機応変してはじめて戦いに勝てる。
だからこそと、秋山真之は考えます。
——応用するにはまず、基本が確立されていなければならない。
明治35年7月17日、常備艦隊参謀秋山真之少佐は旗艦「初瀬」の艦上で辞令電報を受け取ります。「免本職、補海軍大学教官」とありました。
翌年10月28日、秋山教官は連合艦相参謀に任じられ、海軍大学校での講義を1年と2ヵ月あまりで切り上げて海へもどります。
日本海海戦の奇蹟の大勝利は明治38年5月27日、2年たらず後でした。