取材を継続していって、いわきの現在が、私の心に何か大きな振幅をもたらすことがあるのかどうか、いまのところはまだわからない。
いわきで、ひとりの避難者に会った。双葉町から避難してきた福田一治さん(45)である。親の代から双葉町で一般人材派遣業を営んでいたが、原発事故で避難を余儀なくされた。
震災後、まもなく五年が経とうとしているというのに、いまだに福田さんはいわき市内の仮設住宅で暮らしている。いわきで人材派遣業を再開した福田さんは、双葉町の新春恒例の祭り、「ダルマ市」を仮設住宅で再開したことで新聞の取材を受けている。その記事を読んでわれわれも取材を申し込んだわけだが、すでに“原発避難民”として何度も取材を受けているらしく、そして、嫌な思いも何度もされたらしく、マスコミに対して相当な警戒心を抱いている様子だった。
突慳貪な返事
福田さんの会社の応接セットで対面した。眉毛を綺麗に整えた、なかなかの男前である。避難当初の状況を教えて欲しいとお願いすると……。
「もう、何年も前のことだから、そんなこと忘れたよ」
相当に突慳貪な返事である。
「避難生活で一番アタマにきたのは、マスコミかな。被災者が賠償金の話でいじめに遭ったのも、誰かがちょっと言ったことをマスコミが盛って書いちゃったからだよ。被災者は賠償金をたくさん貰ってるって金持ち扱いされてるけど、双葉町の土地と家の価値を元にして貰ってるわけだから、仮に(土地の値段が高い)いわきで家を建てれば、ずっと小さい家になっちゃうんだよ。マスコミが黙っていれば何のトラブルも起きなかったと思うけど、被災者をダメにしたのはマスコミだよ」
福田さんの避難生活は、当たり前だが、唐突にやってきた。原発が事故を起こしたから避難しろとパトカーが触れて回ったので、ほとんど丸腰で家族とワゴン車に乗って双葉町の自宅を出た。
「まあ、その日の夕方ぐらいには戻ってこれるのかな、ぐらいに思ってた。ピクニック気分だったよね」
妻とふたりの子供、福田さんの母親、そしてなぜか娘の彼氏が行動をともにすることになった。合計6人である。
「彼氏はなんで一緒に来たんですかね」
「そんなこと俺が聞きたいよ」
「お嬢さんを守りたかったんですかね」
「避難する時に初めて会って、なんじゃお前、みたいな感じだったよ。後でちゃんと結婚したからいいけど。いまは俺とも仲いいんだよ(笑)」
福田さんの表情が少し和らいだ。福田さんは「忘れた」どころか、避難経路を克明に記憶していた。いや、経路というより“遍歴”と言うべきか。
「最初、南相馬に逃げて、そこで原発が爆発したのをTVで見たんだよ。次が郡山、郡山市内で一回移動して、白川へ行って、栃木の那須の辺りへ行って、それで埼玉のスーパーアリーナに行った。双葉はみんなあそこに行ったんだ。そこからまた栃木へ戻って、郡山、リステル猪苗代、二本松、それでいわきだな。勘定してみな、11か所になるはずだから」
たしかに11カ所になる。これが、わずか2か月間の“遍歴”だというから驚かされる。私はひとつの避難所に長期間いられるものだと思っていたが、どうもそうではないらしい。
「避難所って行政が用意したものだけじゃなくて、企業がボランティアで提供している施設なんかもあって、長く居られる雰囲気じゃないんだよ。せいぜい3日か4日だな」
福田さん一家と彼氏は、2カ月間の放浪生活の後、当時、高校生だった長男が二本松市の高校に転入したため、妻、長男、長女が二本松にアパートを借り、福田さんと福田さんの母がいわきの仮設に入ることになった。なぜ、いわきなのかといえば、事業を再開するにはいわきを拠点にした方がなにかと都合がいいし、二本松に比べれば双葉町が近いからだ。