迷走か、決意表明か、謎の遷都
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――天平12(740)年、宇合の長男である広嗣〔ひろつぐ〕が大宰府で挙兵、いわゆる藤原広嗣の乱の最中、聖武天皇は東国へ行幸します。その後、平城には戻らず恭仁京(〔くにきょう〕、京都府木津川市)へ遷都し、紫香楽〔しがらき〕の離宮(滋賀県甲賀市)に大仏を造ろうとして頓挫。次には難波宮(〔なにわのみや〕大阪市)へ向かうも、天平17年には平城へ還都……。この「迷走」とも思えるような都遷りの意図は?
里中 私は、ここは聖武の「心の病」的に描きました。けれど実際には、クーデターを抑えるなど、政治的な思惑もあったとは思います。
千田 私は、この件について、さらに政治にウエイトを置いて捉えているんですよ。確かに聖武の胸中に不安や迷いがなかったといえば嘘になるでしょう。しかし、これらの動きがただの迷走だとか、遷都が逃避行だったとは思わない。この動きの裏には、聖武の「ある決心」が秘められていると見ます。
photo:打田浩一
里中 ある決心、と言いますと?
千田 東国行幸とそれに次ぐ遷都は「反藤原」の意思表示だった。それが最近の私の解釈なんです。その根拠のひとつに、聖武が東国行幸で辿った足跡が、壬申〔じんしん〕の乱(2)の勝者、天武天皇の進軍ルートにほぼ重なる、ということがあります。乱後、歴史上最強とも言えるほどの存在感で君臨した天武の足跡を検証することで、藤原の呪縛から逃れる力を得て、自分もまた「天皇の京」を造りたい、という思いがあったのではないか、と。
里中 だとすると、先生がおっしゃった「平城京は藤原氏の京として造られた」との前提が、より決定的になるわけですよね。ということは、聖武はもう、平城へ戻る気はなかった……?
千田 少なくとも、平城京を出た時には、戻るつもりなど毛頭なかったでしょう。藤原氏を棄てる=平城を棄てる、ということですから。『続日本紀』の天平13年8月条には、平城京にあった東市、西市(官営の市)を恭仁京へ移す、とある。当時、平城京の人口は約10万人と推定されますが、商業機能の要の「市」が移れば、当然それに伴う人口の流出が考えられる。実際、その頃の平城はかなり荒廃したらしく、そんな様子を物語る歌も万葉集に残っています。
しかし結局、財政難で恭仁京の造営は中断、放火などによる妨害によって紫香楽宮に大仏造立もならず、最後は「大仏さえ造らせてくれるならどこでも……」といった感じで平城へ戻ってくるわけですけどね。やはりそういうところ、聖武は優柔不断な男、といえますかね?