里中 その偉大な母、光明の没後、孝謙女帝は、いったん譲位するものの、それを退けて称徳〔しょうとく〕女帝として復活。さらには僧、道鏡に、天皇に並び立つ「法王」の位を与えてしまいますよね。その経緯、というかそこに至るまでの心の動きって「結婚もせず言われるまま天皇位について、用が済めば譲位させられて。私の人生って何だったの? これもみんな天皇制のせい。そんな制度、この手で変えて見せる!」といったものではなかったか、と……。
千田 道鏡を法王にすることにより、天皇である称徳自らが天皇制を否定する側に立つ、ということですね。いや、そのお考えは大変おもしろい。
里中 見て来たように言ってるんですけれど(笑)。ただ、遷都も含めて、「何かが動く時」というのは、意外と、人の情とか、そういう理屈だけじゃないものが、事の行方を左右するカギとなるのかもしれない……そんな感じはします。
千田 確かにそれはあるでしょうね。大きく流れを眺めると、大仏造立以降、この辺りを境として、平城の時代は衰退の一途を辿るんですね。都としてのエネルギーが萎〔しぼ〕んでいく。文化的な視点からも然りで、万葉集に出てくる歌を見ても、人間の内面の力が漲〔みなぎ〕る時代は終わった、という感があります。また皇位の継承も、称徳を限りに天武系から天智系へと転換する。つまり、もともと天智系と縁りの深い藤原氏にとっては理想的な流れとなる一方、天皇側は次第に力を削がれてゆく中で、次の時代へとなだれ込んでいくわけです。
そして、まどろみの平安へ
千田 平城京の後、長岡京で10年。しかし実のところ、この遷都の意図はよくわかりません。遷都をした桓武〔かんむ〕天皇の母方の百済〔くだら〕系勢力との関係など、信じるべき点のある諸説はあるものの、いずれも決定打に至らない。それに長岡京は、どう調べても風水で説明がつかないんです。
photo:井上博道
里中 平安京は、それはもう風水にピッタリはまる土地なんですけどね。
千田 そういう好条件もあってのことでしょうが、平安京に遷った時、桓武は、これ以後都遷りは止めると宣言しています。ただし、その一番の原因は財政難で。とてもこの先、新都を造ることなどできないとね。だからある意味、千年の都というのは、資金不足の上に成り立ったものと言えるんです。