里中 さあ……どうでしょう。気弱で仏教に救いを求めたとか、ある角度から見れば偉業を為したとか、後世の評価は定まりませんが……。書などを見ると、生真面目な方、という印象は受けますね。
千田 なるほど聖武は端正な字を書きますからね。
里中 左右のバランスが見事に整っていて。それに対して光明皇后の書は、行の頭も揃っていなければ、行間もバラバラ。ずいぶん対照的です。
――藤原氏の血統である光明皇后は、平城京を棄てることに異議はなかったのでしょうか?
千田 光明皇后は則天武后〔そくてんぶこう〕(3)に憧れているフシがありましてね。その則天武后の好んだ洛陽の都と恭仁京の立地が、河川が東西に流れるという点で似ていた。さらには、則天武后が龍門石窟(4)の奉先寺洞の毘慮遮那仏〔びるしゃなぶつ〕造立に寄与していたということもあり、大仏造立発願に対しても積極的であった。おそらく、光明は恭仁京に洛陽を再現する夢を描いたんじゃないかな。それができるなら平城を棄てるも辞さず、と。
里中 そうした変わり身の早さには、やはり藤原の血を感じますね。今、どうすれば力が持てるか、物事を合理的に進められるかを考え、流れに応じて機敏に「変化していく」。そういうところが、藤原家の強さなんでしょうね、きっと。
天皇制への反旗
里中 聖武と光明の娘である孝謙〔こうけん〕女帝が即位する辺りから勢力を増していく藤原仲麻呂(5)、という人物がいますよね。私は、藤原四兄弟亡きあと、一族の中でもっとも明晰でハンサムな仲麻呂が、天皇家の信任を繋ぎ止めるために、あらゆるテクニックを使って孝謙女帝を籠絡し、操ろうとした……とまあ、非常に下品な表現ではありますが(笑)、そういう物語を描いたんですけれど――。この仲麻呂が、官職の名を唐風に改めたり、天皇を「皇帝」と呼ばせたりする、「中国風名称使用事件」とでも言うような動きがありましたでしょう?
千田 『続日本記』などを見ても、急に「皇帝」という文字が出てきますね。
里中 あの時仲麻呂が、諸事、中国風にしていったのは、いずれ自分が頂点に立つための布石――、つまり「天皇」にはなれなくても、それまで日本の歴史になかった「皇帝」になら……! といった仲麻呂自身の野心からだと思っていたのですが。先ほどの光明=則天武后傾倒説と考え合わせると、この改革は仲麻呂の独断ではなく、光明の意思が反映されていた、ということでしょうか。
千田 むしろ私は、光明主導だと思いますよ。皇太后となってから「紫微中台〔しびちゅうだい〕」という自分直属の機関を持ち、その長官に甥の仲麻呂を据え、限りなく天皇に近い位置にいた。この点ひとつを見ても、光明はよほどの人物ですね。
(4)洛陽の郊外にある中国を代表する石窟寺院。
(5)武智麻呂の次男。淳仁天皇より恵美押勝の名を賜り権勢を振るうも、光明皇后の死後、道鏡の排除に失敗して斬首された。