遊女等に出産せる小兒は、本國に伴ひ歸りて宜しきや
道台が去った後、なにを勘違いしたのか幕吏は突然オランダ公使に向かって、「道臺は才子と相見え申候(いや~、道台はデキ申す)」と、口を滑らせる。加えて、あろうことか「遊女等に出産せる小兒は、本國に伴ひ歸りて宜しきや」などといった愚にもつかない、いや相手からバカにされるに決まっている質問まで口にしてしまう。
公式の場で主張すべきことを主張せず、言うべからざる席で言わずもがなの話題を持ち出す。オランダ公使を“身内”と思い込んでの軽口だろうが、永遠の味方はいないのである。いつだって、時と場合によっては味方が敵に豹変することもあることを肝に銘ずるべきにも拘わらず、軽率が過ぎる。交渉担当者としては最悪・最低の振る舞い。バカにつける薬はないというしかない。
中牟田のみならず高杉もまた、千歳丸の幕吏は役不足の小役人であると綴っているところからしても、対中交渉不首尾の責任の一端は幕吏の無能に求められそうでもある。だが、やはり長かった鎖国もまた大きな要因として考えておかなければならないようだ。
それしても既に幕末の時代から、さほどまでに交渉下手だったとは。プロ野球解説者の野村克也元監督に「勝ちに偶然の勝ちあり。負けに偶然の負けなし」との“格言”があるが、確かに負けるべくして負けたというのが、幕吏対道台の談判だったように思う。
あるいは文久2年の上海での外交交渉の席における幕吏の振る舞いがトラウマとなって、我が国の現在まで続く対中交渉を縛ってきたのではなかったか。そう“牽強付会”でもしないかぎり、ことに1970年代にはじまった日中国交正常化交渉以後の一連の対中外交の弱腰ぶりは説明できそうになさそうだ。
ここで改めて千歳丸に乗り込んだ若者を紹介しておくと(上海滞在時年齢。著作名。所属藩)、高杉晋作(23歳。「遊清五録」。長州藩)、中牟田倉之助(25歳。「上海行日記」。佐賀藩)、日比野輝寛(24歳。「没鼻筆語」。高須藩)、納富介次郎(18歳。「上海雜記」。小城藩)、名倉予何人(不明。「支那聞見録」。浜松藩)、峯潔(不明。「清国上海見聞録」。大村藩)、五代友厚(26歳。薩摩藩)など……誰もが若く好奇心に溢れていた。
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